シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

例えば宝くじで三億円当たれば、それで幸せな選択肢を選べるのか

 
過去と若さは金銭で贖えない、という前提を踏まえて - シロクマの屑籠
 
 上記リンク先の文章を打ちながら、“金銭では贖えない過去からの諸々”について色々と考えていた。世の中には多分、金銭を手に入れればそれでどうにかなる人と、金銭以外の体験なり蓄積なりのほうが必要な人があるのだろう。例えば宝くじで三億円あたった時、それで未来を上手に買い切ることの出来る人というのは、どれぐらいいるだろうか。
 
 
 三億円当たっても、競馬とパチンコにつぎ込むしか能がない人がいるかもしれない。
 
 定期預金する以外の選択肢を思いつかない人がいるかもしれない。
 
 分散投資という概念を知ってはいても、不安が強くて、相場が動くたびに動揺売りを繰り返す人だってあるかもしれない。
 
 
 こうした人達に、三億円ポンと渡しても、多分、未来は開けない。生活保護費を三日でパチンコですってしまうような人に、金銭的援助だけを続けていても、湯水のように無くなっていくばかりで、さほど未来を耕せないような気がする。
 
 
 一方で、ある種の知識と勘を持った人は、五千万円ぐらいでも巧みに膨らませていくかもしれない。或いは、金銭をさほど必要としない形で、体感不幸度の少ない日々を過ごせる人もいるかもしれない。金銭にまつわる賢さというのは“儲ける”ばかりが能ではない。なかには少ない金銭で十分に暮らしていける人もいる*1。彼らの資質なり賢さなりは、間違いなく財産だが、おそらく、金銭を支払えばポンと入手出来るような財産ではない。もっと、手間暇やら時間やら体験やらを経なければ、蓄積しようの無いリソース(資源)だ。持っている人にも、持っていない人にも認知されにくい、定量化しにくいリソースではあっても、そういうものの有無は間違いなくあって、個々人の命運や選択肢・可能性といったものに絶えず影響している。
 
 
 この点において、例えば(2chの)ひろゆきのような人達は、定量可能な金銭的な財産だけでなく、金銭ではすぐに贖えない、可視化しにくい過去からのリソースを持っている、と推測される。ひろゆきの場合は、むしろ、そちらのほうこそが大きな財産とさえ言えるかもしれない。彼の種々の能力やセンスは、数億円の札束よりもずっと価値のあるもののような気がする。例えばひろゆきの能力があれば、資産が少なくなってもまた金銭を創り出すことも出来るかもしれないし、あまり金銭が創り出せなくても、あまり不幸にならずに生きていけるかもしれない。一方で、幾らお金を入手しても穴の空いたバケツのように逃げていく人というのもあるし、金銭を巡って人間関係をもつれさせて不幸のどん底に沈み込む人というのもある。穴の空いたバケツのような人には、多分、金銭よりも必要な何か(バケツの底を塞ぐような何か)があるのだろう。こういうタイプの人の場合、三億円の宝くじが当たってもあまり幸福な選択肢は増大しないだろうし、もしかするともっと大きな不幸ばかり呼び寄せることにもなりかねない。案外、三億円の宝くじを幸福推進の為に上手く運用出来る人というのは限られているんじゃないか。少なくとも私自身は全く自信がない。せいぜい、執着に振り回されるうちに蕩尽してしまうんじゃないか。
 
 
 金銭で可能性は買える。だが、可能性を的確に買い叩く能力や、少ない金銭で可能性を侵されないようにする為のノウハウは、たぶん金銭では手に入らない。そして、そちらのほうの能力やノウハウといったリソースが不足しているが故に、多少の金銭的支援・幸運があったぐらいではどうにもならない人というのが、娑婆には沢山存在しているようにみえる。逆に、金銭的なものをさほど必要としないで、不幸を最小化しつつ未来を最大化している適応巧者も存在しているようにみえる。おそらく三億円の宝くじは、ある種の人々の可能性を絶大にするには十分ではあっても、ある種の人々の可能性をそれほど豊かにはしない。底に穴の空いたバケツに幾ら水を注いでも満たされない道理だ。異なった種類のリソースなり、異なった種類の援助なりを伴わなければ、幾ら金銭を注ぎ込んでも満ちないバケツというものもあるだろう。
 
 

*1:この手の人達は、社会制度を巧みに利用して、子どもの教育なども何とかしてしまう。年収二百万ぐらいでも、何とかしてしまう・何とかなってしまう賢さを持った人というものも、世の中には確かに存在している。