シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

非コミュのエゴと、コミュニケーション

 
 
 http://d.hatena.ne.jp/milkmaker/20080314/1205514409
 リンク先の文章に書かれている“非コミュの苦悩と悪意”なるものについて、エゴイストな僕が私見を述べてみることにします。
 

「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」という人と、「自分は言われなくても色々するから、あなたも言われなくても色々してね」という人。
 
非コミュは自然と前者の認識を持っている。けど、非コミュに悪意を向ける人には後者の認識がある。

http://d.hatena.ne.jp/milkmaker/20080314/1205514409

 
 本当にそうなんでしょうか。非コミュ・非モテを自称する人達は、本当に「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」という、さっぱりした人達なんでしょうか。 
 
 しかし、そもそもが職場なり学校なり何某かのコミュニケーション空間において、相互不干渉を守ってくれと願うこと自体が、既に相手に空気を読んでくれと頼んでいることに当てはまるように思え、なんだか相互干渉的に思えませんか。家に引きこもっているのなら問題無いですし、完全なるゾーニングが可能な特殊な場所でも問題は無いかもしれません*1。でも、人と人とが肩を寄せ合って生きている空間・コミュニケーションが間断なく起こっている空間で、「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」と願う事自体が、既に自分の願望の押しつけであり、顕在化したエゴそのものではないのだろうかと思えてならないのです。非コミュに対する同調圧力がどうのこうのとは言うけれど、その非コミュ自身が「俺の空気を読んでくれ」と背中と表情で語っているとしたら、なるほど確かに冷戦にならざるを得ませんし、周囲の人達が、そのようなエゴの取り扱いに当惑するのも致し方ないようにも思えます。しかしその場合、非-非コミュ側の悪意だの同調圧力だけをコンフリクトの要因とみなすのは(または道徳的にどうのこうのと言うのは)片手落ちだと言わざるを得ません。その冷戦の最中において、非コミュは非コミュのやり方と願望をもって、「お前ら、俺の空気を読んでくれよ!そして俺の空気に合わせてコミュニケーションしてくれよ!」と言語化しないメッセージを発信しているわけで。空気を読んで欲しいと思ってるのも、俺の態度を尊重して欲しいと思っているのも、それは非コミュ側も非-非コミュ側もさして違いがあるわけではないと僕は思います。
 

多分、非コミュが欲しいのはコミュニケーションスキルじゃなくて、無言の間でも存在する好意。

 ここで言う“無言の間でも存在する好意”というのは、まさに周囲の人に願望を投げかけているものであって、「俺の空気を読んでくれ」という非コミュ同調圧力ではないのでしょうか。もしも、非コミュを自称する人が、このようなモノを期待しているとしたら、これはかなり高い要求水準と言わざるを得ない。このような人がいるとして、その人の期待するモノを周りが満たそうとするとしたら、周りの人は「空気を読んで」「読んだ空気に合わせて」「わざわざ合わせていることを黙って」いなければならないということになりそうです。
 
 一般的には、「自分は言われても何もしないか出来ないけれど、あなたは言われなくても色々してね。少なくとも俺の空気を読んで、配慮してね」という態度が透けて見える場合、コミュニケーション空間において良い評価を得ることは難しいと思います。だけど、上記の「無言の間でも存在する好意」を期待する態度というのは、それにかなり近しいもののように僕にはみえるわけです。これでは、自分が願望する空気に持っていくのが難しいばかりか、煙たがられてしまいかねません。
 

結局コミュニケーションするしか無いんじゃないでしょうか

 
 無言で空気を読んでくれというのが無理としたら、どうすれば良いのか?実際の方法としては、「俺の空気を読んでくれ」を言語化して周囲に伝達し、自分を取り囲む環境をどうするのか交渉していく・話し合っていくというのであれば、場の雰囲気や一対一のコミュニケーションに対して寄り添っていく余地が生まれるんじゃないかと思います。言語化することなく黙っているだけで「俺の空気に合わせてくれ」とか「無言の間でも存在する好意」を期待して、それが叶わないからと言って恨んだり問題視したりしてもはじまりません(周りが全員エスパーな超善人でもない限りは)。結局のところ、言葉を交えたコミュニケーションを通して、お互いがお互いのエゴをさらけ出しながら、落としどころを見いだしていく他無いと僕は思います。少なくとも、そういったコミュニケーション抜きにして、自分の願望する空気と周囲の空気が異なることを問題視したってしようがないのではないかと思うわけです。繰り返しますが、お互いがお互いのエゴをぶつかり合わせて、その中で落としどころを見いだす、です。そして「中国の核はきれいな核」なんて無いのと同様に、「非コミュのエゴはきれいなエゴ」なんて事もありません。個人個人のエゴなり損得なりを賭けて、僕らはメッセージを飛ばし合うしかないのでしょう*2
 
 ただ、こういう考え方でいくと、どこまで自分のエゴが通るのかどうかは個々人のコミュニケーションスキル/スペックによって大きく規定されてくる、ということを問題視しなければならなくなります。「僕の空気を読んで欲しい」とメッセージを発信するにしても、誰がどのように発信するかによってコミュニケーションの帰趨は大きく違ってきます。極端な話、突然に「俺は俺の空気でやらせて欲しいんだ!お前らわかってるのか!」とキレてみせるようなコミュニケーションしかとれない人などは、自分のエゴを上手く周囲の人に浸透させることが殆ど出来ないでしょう。コミュニケーション能力の可否によって結果が変わってくるというのであれば、そのような能力に恵まれない人は不利を被らざるを得ない、という視点からみれば、確かに非コミュ問題というのはあるだろうな、とは思います。
 
 それでも僕たちは、コミュニケーションを通してでしか、空気を創り出すことも空気を変えることも出来ません。自分が疎外されていると思ったとしても、それを周りの人に的確に伝達出来なければ、何も起こらない。だとすれば、コミュニケーション能力がボトルネックとなっている人の、そのボトルネック*3に注目していくことに一定の意義があると思います。しかし、エゴの有無や同調圧力の有無で非コミュだけを特別扱いする必要は無いような気がするんです。非コミュは非コミュなりのエゴなり同調圧力なりを持っているし、僕の見知っている限りにおいては、非言語レベルで(例えば無言の背中で)発している場合も少なくない*4。非コミュだって十分にエゴに満ちていると僕は思いますし、空気を読めよというプレッシャーを周囲に発していないわけではないと思うのですが、如何でしょうか。
 
 この辺り、どちらがエゴイストだとか、どちらが道徳的だとか置いといて、言葉を交えて上手くお互いの願望やエゴや空気を調整出来るといいんですけどね。だとしても、その場合に誰がどれだけ上手くメッセージを表明出来るのかいったコミュニケーション能力を“純客観的に”評価することは難しいので、エゴや空気の「公平な調整」がどの辺りなのかを見極めるのも困難と言わざるを得ません。メッセージを介してしかコミュニケーションを行えない以上、そしてその巧拙に個人差がある以上、互いのエゴや空気を「公平に調整」することは不可能に近いようにみえます。現実には、今日も世界中の人間がコミュニケーションの火花を散らしています。この、コミュニケーションという名のこの戦場から、僕らは死ぬまで降りることを許されないのでしょうね。
 

*1:そんなものは、2chのスレッドやニコニコ動画ぐらいでしか可能ではないと僕は思うんだけれど。

*2:この視点からすれば、非コミュが言葉を媒介物とせずに、ジト目と態度で「空気を読まないお前らは悪い奴で、俺は被害者だ」という態度を表明するのも、メッセージと言えるでしょう。戦術的にそれが有効かどうかはともかくとして、そのような後ろ姿自体は、当然非コミュ自身のエゴと損得に根ざした振る舞いと指摘することは出来るでしょう。

*3:念のため付け加えると、僕がここで問題とするコミュニケーション能力は、言語の操作能力や非言語メッセージの操作能力だけでなく、パーソナリティや気質も含めてのものを想定しています

*4:なかには、その無言の背中を通して、立派に己のエゴを獲得している人だっている。無理矢理空気を読ませて己にとって良い結果を獲得している人だっているように見受けられます