シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

つまんないのは「現実」?「夢・理想」?それとも「僕」?

 
 
 「現実はつまんないよね!」「みんなもそう思うだろ?現実なんて、つまんねえよね!」
  
 
 体調を崩して暫く寝込んでいた。熱にうなされたなか、とあるネットラジオで誰かが叫んでいた、「現実はつまんないよね!」という台詞が頭から離れず、とりとめの無いことを繰り返し考えていた。
 
 
 
  
 現実は、つまらない、という。現実じゃないモノのほうが面白くて、ドキドキできるということなんだろうか。現実よりも面白いモノがあるとしたら----例えばそれは、アニメや映画のようなフィクションかもしれないし、直には会うことの無い人との、インターネット上のコミュニケーションのことかもしれない。逆に考えると、ネットラジオでつまらないと言い放たれていたところの「現実」というのは、一体どこにあるんだろうか?「現実」と言って僕が連想したのは、例えば厳しい雇用情勢とか、いっこうに増額しない預金通帳とか、ややこしい恋愛市場とか、その辺りの諸々だった。そういうのを指して、「現実」と言えば良いのだろうか。もしそうだとするなら、「現実を見ろ」というのは、アニメコンテンツやらインターネットタイムやらに比べれば、確かにつまらなそうな、胸のすく思いの少なそうな、糾弾と抑圧にまみれた時間や空間のように思える。
 
 じゃあ、「現実」と「夢」「理想」なりが重なり合っているような幸運な人というのは娑婆に存在しないのだろうか。いないことは無いと思う。例えば、ライブドアでブイブイ言わせていた頃のホリエモンあたりはどうだろうか。ホリエモンまでいかなくても、自らの才覚で世間と対峙している実感の強い職種の人や、自らの器量を問われ続け、尚且つ一定の評価を獲得しながら仕事に就いている人であれば、「現実」というのは積極的に精励したくなるような、炎のようなスリルを味わえるアリーナとして体験されるものかもしれない。尤も、そんな人は少数派のようには思える。今、「現実」と「夢」「理想」なりを重ね合わせることの出来る人間は幸運といえる。「現実をみろ」とどやされる心配も無く、娑婆でいう“現実とやら”と一緒くたになった当人の「夢」なり「理想」を追いかけ続け、自己陶酔していたとしても誰からも後ろ指を指されずに済む(勿論自分自身に後ろ指を指されずにも済む)のだから*1。しかしそのような幸運に恵まれている人というのはやっぱり一握りで、過半数の人達にとっては「現実」と「夢」「理想」はズレた時空間に存在するものになっているようにみえる。少なくとも、「現実」と「夢」「理想」がフィットしない時間や空間を沢山抱えたまま、生きているようにみえる。
 
 くだんのネットラジオで言われた「現実」というのは、じゃあ、「夢」「理想」とフィットしないような時間や空間を指しているのかもしれない、と僕は思った。「夢」「理想」とフィットした時間や空間であれば、多分あまりつまらなくない、ウキウキドキドキしたものに違いないだろう、と。ネットラジオで叫ばれていた「つまんねえ現実」というのは「夢」「理想」を重ね合わせることの出来ない時間や空間で、「夢」「理想」を重ね合わせることの出来る時間は、「現実じゃない」か「つまんなくない現実」のどちらかということになるの、かしら。
 
 

「夢」「理想」でも、つまんないのはつまんないじゃないか

 
 じゃあ「夢」「理想」があればつまんなくないのか?教えて!ネットラジオのえらいひと!しかし、放送はとっくの昔に終わったので自分で考えてみることにした。ところが、「夢」「理想」の側に寄り添えばそれで「現実」よりもスリリングかと言ったら、どこにもそんな保証は無いという事にも気づかされた。
 
 確かに、「つまんない現実」を「夢」「理想」で上手く目隠しすることは出来るかもしれない。沢山の人が、沢山の「夢」「理想」をパッケージにして商売にしている昨今であれば、「つまんない現実」よりはマシな境地を買い求めることまでは、そんなに難しく無いかもしれない。だけど、そこから先、スリリングだったり面白かったり知的好奇心を刺激しまくったりするような「夢」「理想」を誰もが拾い上げることが出来るのかは、よく分からない*2。それに、「つまんない現実よりはマシ」なものとして動員される「夢」「理想」っていうと、なんだかまるで「つまんない現実の手先」みたいじゃないか。ふと我が身を振り返って、「夢」「理想」として僕が期待しているモノを点検すると、ああ、僕自身の「夢」「理想」がどの程度スリリングでどの程度つまんなくないものなのか分からなくなって、まるで「つまんない現実の手先」みたいなものを追いかけているかのようにも思えてきた。もしかして僕は、水で薄めたワインのような「夢」「理想」にのめり込んでいるのだろうか?じゃあ逆に僕が「現実」をみているかというと、これまた怪しく、「夢」やら「理想」やら「願望」やらのフィルターを十枚ぐらい越したうえで眺めているようにも思えてくる。こうやってゴチャゴチャ考えているうちに、現実がつまらないのでも、夢や理想がつまらないのでもなく、どうやら僕自身がまずつまらないのではないか、という結論らしき疑いに辿り着いた、ように思えた。
 
 つまらないのは、「現実」なのか「夢」「理想」なのかは、定かではない。今はまだ、定かではない。でも、「俺の現実つまらない」「俺の夢や理想はくだらねぇ」と思ったその瞬間、まず自分自身がつまらなかったりくだらなかったりする可能性が高そうに思えてならなかった。38度2分の脳味噌で、ネットラジオで聞いた陽気な声をもう一度思い出してみる。
 
 
 「現実はつまんないよね!」「みんなもそう思うだろ?現実なんて、つまんねえよね!」
 
 
 つまんないのは、何なのだろうか。つまらながっているのは、誰なんだろうか。「現実」がつまらないんだろうか。「夢・理想」がつまらないんだろうか。今、僕が考えていた諸々の譫言も、つまらない事だったのだろうか。
 
 

*1:本題とはズレるのであまり書かないけど、じゃあ「現実」と「夢」「理想」がダブっている人が「現実」をみているのかと言うと、かなり曖昧な話になってくるけれど、色々と略。

*2:最高級の「夢」「理想」のパッケージ商品だって、それをいただく僕らの側が最高級に楽しめるとは全然限らない。しかも、市販の「夢」「理想」パッケージには賞味期限までついているようなのだから。