シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

誰がためのビデオ撮影

  
 小学校の運動会や幼稚園のお遊戯会の時、またはピアノの発表会などの時、父兄のビデオ撮影のカメラがずらりと並んでいる風景に違和感を感じたことは無いだろうか。我が子の一挙一動を捉え損ねまいという強い執着が、レンズ越しに子どもに向けて投げかけられていることに、子ども心に気味の悪さを感じたことは無いだろうか。少なくとも自分は、そういうのを気持ち悪いと思うほうだった。写真ぐらいはまだしも、一挙一動を録り続けるビデオカメラの目線には、捉えて離すまいという執念のような何かを感じる。これは、自分がビデオ撮影をする側に回った頃から確信に変化した。ビデオカメラを持っていると、(写真のように)特定の瞬間を切り出す意識の代わりに、撮影対象を余さず捕まえようとする妙な執念が自分自身に宿るような気がしてならない。
 
 「子ども自身が将来見返す為に、撮影しているんです」
 
 しかし、実際に子どもがわざわざ映像を見返すというのは稀で、大方、押入れの肥しになるのが関の山だろう。では自分自身が将来見返す為なのだろうか?それもまた違うような気がする。確かに、思い出を思い出す為に撮影する、という要素はゼロではないだろうが、実際に思い出に残るのはビデオ撮影に捉えられないどこかだろう。もしかしたら、レンズ越しで撮影した、という妙な記憶ばかりが目立つことにもなりかねない。大体、カメラ越しでは子どもを応援することだって出来やしない。
 
 それでも多くの父兄が、晴舞台の子どもをビデオカメラで撮影する。自分の瞳に我が子の姿を映し出すよりも、ビデオカメラを通して一部始終を捉えることを選ぼうとする。異様な熱気を孕んだ観客席から、執拗に、追うように、レンズが子どもに向けられ続ける。カメラで子どもを追いかけているのは、誰なのだろうか?誰の為にビデオ撮影しているのだろうか?そして、撮られているほうの子どもは、レンズ越しの親のまなざしをどのように体感しているのだろうか?