シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

2/23第二回北極ネトラジの要約

 
 

 
以下に、先日2/23に【北極ネトラジ】第二回:[オタと蛸壺と承認欲求] のおしらせ - シロクマの屑籠で放送した内容のメインの筋と、質疑応答の要約を用意しました。放送を振り返りたい方は、以下をご覧ください。
 
 
 
【前半パート】現在のオタク文化圏は、どの程度まで蛸壺と呼べるのか?----「オタクだから」が言い訳にならない時代へ
 

  • 2008年現在、ゲームやアニメは男女様々な年齢層が視聴する時代で、カルトな人だけが訳知り顔にコンテンツを独り占めする時代は終わっている。電車男以来、マスメディアがオタクコンテンツを取り扱う姿勢もかなり様変わりした。オタクのある種のステロタイプは今でもマスメディアのなかに残存しているし、切り口を見出しきれなかったコンテンツに戸惑うマスメディアの姿をみかけないこともないが*1、オタクコンテンツを「子どもでなければ根暗な大きなお友達ぐらいしか夢中にならないモノ」と断じる姿勢は急速に薄れている。文化としてのオタコンテンツは、良くも悪くも一定の市民権を得たと言って差し支えない。

 

  • それでもまだ、「キモオタ」という言葉は残存しているし、誰かが誰かを侮蔑することというのは、ある。今キモいとされているのは、それぞれのオタクコンテンツではなく、それぞれのオタクジャンルでもなく、個々のオタクが(否、オタクか否かに関わらず)キモい場合にはキモいと言われる。例えばガクトがTVでガンダム語っても怒られない。何を愛好しているのかより、どんな人が愛好しているのかが重要。

 

  • もはや「アングラでカルトなオタク族への差別」という時代じゃない。「キモいかどうか----言い換えるなら、コミュニケーションしたい相手かどうかや相互理解にかかると見積もられるコストの大小」が、キモいかキモくないかの分水嶺になる。オタク趣味を愛好していようと、これだけアニメやゲームがメジャーな文化になれば、それ自体が問題になることは少なくなる。

 

  • 今までは、良くも悪くも「あいつはオタクだから」「オタクだからキモい」という表現が通用したかもしれない。だが、「オタク趣味は悪いこと」という雰囲気が薄れた今、一個人がキモいと呼ばれる時には、「俺がオタク趣味が好きだから」という言い訳が通用しなくなってしまった。言う側はオタクだからキモいと思ったのではなく、その人がキモいと思ったからキモいと言ったわけだ。また言われた側も「僕がオタクだったからキモいと言われたんだ」などという弁解を自分自身に言い聞かせるのは難しくなってしまった。「オタクだからキモい」「萌えアニメをみているからキモい」という言い訳は自分自身にも他人にもまかり通らない。「キモい」「キモオタ」等の侮蔑の言葉はダイレクトに放たれ、ダイレクトに受け止められる。ワンクッションが無い。

 

  • かつて「オタク文化圏への偏見」「萌えコンテンツへの偏見」は良くないこととされていたし、実際に偏見は存在していた。そういうスティグマが良いとはお世辞にも言い難い。ただ、そういうスティグマがあった時代には、キモオタと言われる側には「俺がキモオタと呼ばれるのはコンテンツのせいで、俺自身に問題があるからではない」という自己欺瞞のチャンスが与えられてもいた。勿論、実際にオタク文化圏への偏見そのものというものも世の中にはあっただろうから、それは自己欺瞞というだけでなく、本当にその通りという部分も大いにあっただろうけれど。

 

  • だから、オタク差別やオタクコンテンツのアングラ感というものに、むしろ助けられていた人・それを言い訳にしていた人というのは存在したんじゃないかと。自分自身がバッシングされている、自分自身が周囲に受け入れられないという問題を、オタク全体がバッシングされている、オタク達が周囲に受け入れられないという論法に摩り替えることによって、自分自身の問題を意識から逸らせるするような処世術。口をすぼめてオタクバッシングやオタクコンテンツへの理解の無さを嘆いてみせる当人が、そういった構造によって等身大の自分個人がバッシングされる危険から距離を置くことに成功していたとするなら、これはかなりあざとい話だと思う。。

 

  • 今でも確かに、オタク文化圏は幾らでもタコツボに潜り込めるとは思う。軍オタ然り、アニオタ然り、それぞれの専門分野にどこまでも詳しくなることは出来るし、それで承認欲求や所属欲求を満たすことも可能。だが、「オタクだから」という免罪符は世間にも自分自身にも通用しにくい。自ら進んで相当に視野狭窄するぐらいのコストを支払わなければ、「俺ってオタクだから」という言い訳を自分と他人に張り巡らせることは通じなくなっている。「オタク」というカテゴリ自体はすっかり一般化・普及化してしまってカルトでも何でもなくなっているので、「オタクだから根暗」とか、そういうコンセンサスは急速に薄まりつつある。従来、「俺ってオタクだから」という免罪符と付き合ってきたオタク趣味愛好家の人も、そういった変化に否応無く巻き込まれていくのではないかと思う。

 

前半質疑応答:

 
・先日、商業コンテンツの違法なアップロードで逮捕された青年が『スレのみんなが感謝してくれるので、期待に応え様とする内にやめられなくなった』と言っていましたが、これも承認欲求の吹き上がり?
 →だと思います。沢山の人に「神」などと言われているなかで、承認欲求を満たしていたのでしょう。ネット界隈の「神」という言葉の流通は、承認を巡るやりとりが行われていることの一端を示していると思う。
 
・承認欲求という点では「被参照量が増えるとレベルが上がるみたいで快感」の方が判り易い
 →アクセス数なんかもそうですが、どんどん欲しくなりますよね。そうこうやっているうちに、一線を踏み外してしまう人も出てくるようにみえます。
 
・「世間一般」の人たちはアニメとか音楽とかなんて大して見て(聴いて)ないですよ。
 →それは他のコンテンツ全般についても言えるのではないでしょうか。例えば本とか。皆みているといえば皆みているし、みていないといえばみていない。かつては小説や映画だって、まともな奴がみるジャンルとは認められていなかったが、今は違う。アニメやゲームもそちらに流れているのでは?(そして音楽はもっと前からそうなっている)
 
・ネット上だけでも他人から承認されたい人の如何に多いことか。あと、最近では神扱いされる事による快感はWinnyよりもニコニコでの方が多いのでは?
 →沢山いますね。そしてニコニコ動画や2chには本当に沢山います。ニコニコ動画は、承認や所属を巡る欲求を共有するうえでとても優れたシステムだと思っています。
 
・自分が面白いと思ったものを見てもらって笑ってもらいたいだけだけど。
 →わざわざキーボードを動かしてアップロードという手間暇をかけて、人に笑って貰う、というのがまさに承認欲求を表しているように思えます。
 



 
【後半パート】都市空間と個人の承認ストラテジー----フラットな空間で承認欲求を満たすのか、井戸の底の蛸壺で承認欲求を満たすのか?
 

  • 前半パートでオタク趣味について書いたように、今の時代、日常のコミュニケーションシーンで問われるのは、どこの趣味領域に住まう人間かよりも、コミュニケーション可能な人間かどうかのほう。どこかの趣味領域でオーソリティーだとしても、ただそれだけでは蛸壺化した狭い領域でしかふんぞり返れない。

 

  • 今回喋っている内容のなかで言う“フラットな空間”というのは、趣味や職能の専門性が問われない(そして通用しない)コミュニケーションの場や、コンテンツを話題として繋がるようなコミュニケーションの手法が通用しないような場。中学校などの学級、街中で他人と遭遇する色々な場、サービス業従事者が様々なタイプの人と出会う場とか、とにかく人と人との間で生きていく世間を想定している。対して、井戸の奥の蛸壺と書いたのは、趣味や職能の専門用語で繋がるような空間やコンテンツを話題として繋がるような空間。オタク趣味領域なんかはその典型。

 

  • 従来オタクはSFとかゲームとかいった、比較的狭いカテゴリのなかで承認欲求や所属欲求を満たしたり、優越感ゲームに満足したりしてきたし、今でもしている。どの自意識の満たし方でも、皆とコンテンツの話題を共有していることを必要条件としている。オタクはコンテンツ媒介型のコミュニケーションに長けているし、そういった経路無しで会話を続けることが不得手。

 

  • コンテンツ媒介型のコミュニケーションは、コミュニケーションの実行機能、特に非言語レベルのコミュニケーションをあまり必要とせず、そのジャンルに詳しくなっておけばオタク同士でコミュニケーションがとれる。この方法というのは馬鹿にしたもんじゃなく、自分が所属しているクラスタなり、自分が異様に詳しいジャンルなりの内側に限定してであれば、大きなストレスを相互に掛け合わず、さほどコミュニケーション能力を問われずに自意識を満たすことが出来る。ネットの各種ツールが整備されたので、そういうのは今はやりやすくもなっている。

 

  • しかし、恵まれた専門職というわけでもない限り、蛸壺の中だけでは餌は手に入らない。人は否応無く蛸壺の外に曝される。蛸壺の外----フラットなコミュニケーション空間----ではコミュニケーションの実行機能が実に様々な場面で多かれ少なかれ問われてくる。趣味の領域の話とか、そういうコンテンツ媒介型のコミュニケーションは通用しない。そして、非言語シグナルのやりとりをはじめとした様々な情報が飛び交っている。

 

  • 大都会や国道沿いのファスト風土のような都市空間は、コミュニケーションのコストをある意味では下げたと言えるが、ある意味では上げたとも言える。コンテンツ媒介型のコミュニケーションや、テンプレ化した客と店員とのやりとりのような、特定の文脈や話題の内側でだけコミュニケートする分には、かつての村社会より随分楽でドライなコミュニケーションが出来るようになった。けれども、コンテンツ媒介型のコミュニケーションの外側や、テンプレ化していないやりとりに関しては、、従来の地域社会と比べてむしろコミュニケーションは大変になってくる。コンテンツを共有しているわけではない者同士が、店員-客のような特定の文脈を離れた次元でコミュニケートする部分については、コミュニケーションのコストは高くなっている。

 

  • しかしそうは言っても、コンテンツだけを媒介物としたコミュニケーションだけに終始することは不可能。自分から誰かに話しかけない場合でも、交差点で信号待ちをしている瞬間とか、オタク狩りが横行する秋葉原を歩く瞬間とか、市役所で何かを申請して待合室で待っている間とか、コミュニケーションってのは絶えず常に起こっていることだし、言葉を投げかけあわなくても、人が人をまなざした瞬間にコミュニケーションは多かれ少なかれ発生している。まなざしや態度もコミュニケーションだし、お互い、値踏みしあって生きている。そして、そういったやりとりってのから逃れることは完全に自室に閉じこもらない限りは不可能で、家族の間ですら発生せずにはいられない。たとえ自分からは相手の視線をみないようにしても、相手はこちらを視たうえで判断している。人の間で生きる限り、コンテンツ媒介型のコミュニケーションとは異なる成分が絶対に入り込むし、それから逃れることは出来ない。そのコミュニケーションの結果として、

[1.承認欲求を踏みにじられるような自意識上のダメージを被る]
[2.自意識のダメージ由来で二次的に行動選択が制限される]
[3.もっと直接的に、相手から受けられるサービスや相手から被る態度が変化する]
 といったことが発生すれば、個人の適応にも影響が出てくることになる。人と人とが出会う限りにおいて、これらのエフェクトは多かれ少なかれ避けることが出来ず、現代の都市空間に住んでいて一見ゾーニング出来ているようにみえて出来ていない私達は、必ず巻き込まれずにはいられない。
 

  • その点、趣味は乏しいかもしれないけれど、十分に凄める元ヤンキーのおっさんのほうが、知識ばかり豊かでキョドキョドしたオタクよりも余程1.2.3.を踏みにじられにくく、フラットなコミュニケーション空間でストレスレスにやっていけると思う*2。「てめぇナメてんのか」と面と向かって言うだけの担保があって行使出来る人は、あれはあれで強みを持っている。あのような汎用性とコミュニケーション上の特質は、少なくとも従来型のオタにはあまり持ってない*3。勿論、つぶしの利くコミュニケーションの実行機能はDQNメソッドだけではなく、他にも色々あるが今回は略する。

 

  • コンテンツやジャンルの蛸壺が苦手という人は他の蛸壺を選べば大丈夫だが、フラットな空間の、コンテンツに媒介されないコミュニケーションやまなざしの次元からは逃れられない。完全に引きこもるのでない限り、人からの評価のまなざしや、コンテンツに媒介されないコミュニケーションから逃れることは不可能。そんななかで承認欲求や適応の戦略を組んでいくのか?蛸壺で承認を腹いっぱい頬張って、街をうろつくときには息を止めるというやり方もあるかもしれない。元ヤンキーのおじさんみたいな方法もあるかもしれない。ただ、どう転んでも、蛸壺のなかだけでひたすらヌクヌクというわけにはきっといかないと思う。個人がどのような戦略で世渡りしていくのであれ、蛸壺の外のまなざしからは逃れられないという当たり前のことは踏まえざるを得ない。

 

後半質疑応答

 
・コンテンツ自体と向き合わず「承認要求/自己肯定の材料として利用する」手合いが「俺はオタだから云々」という話をしているのを見るとロードローラーで轢きたくなる。
 →古い時代のオタクはともかく、今、ニコニコ動画などで承認欲求や所属欲求を満たす人は、それほどオタク趣味を深く突き詰めなくてもそれが可能になっている。旧来からのオタクが、それを煙たく感じるという摩擦は、ちょっと前にもあったし、今もあるし、これからもありそうです。
 
・俺は数年前からオフ会で服装やKYについて言及された経験が有る
 →オフ会で、コンテンツ媒介型以外のコミュニケーションの成分が成分しているというのは昔から実はあったものだったと思いますが、それが顕著になってきたのは21世紀になってからだと思います。
 
・会社の中のコミュニケーションって「会社」っていうコンテンツ依存型のコミュニケーションですよね?
 →確かに特定の業務の内側で仕事が出来るなら、研究室に閉じこもった専門職に近いやりとりが可能かもしれません。しかし、不特定多数と対峙しなければならない立場にある限り、コンテンツだけを媒介物としたコミュニケーションには終始しづらいと思います。オタ同士が特定のコンテンツやテーマを題材に集まったオフ会でさえ、コンテンツ媒介型のコミュニケーションの外側に曝される部分を一応は含んでいます(濃度は流石に少ないにせよ)。余程の専門職でない限り、「会社」という場で、コンテンツに媒介されない外側の影響をゼロ近似することは困難ではないでしょうか。
 
・働くためにこそ承認欲求ってある程度縮小されるべきだと思うのですが/「ダメオタが一般レベルの承認欲求持ってたら働けない。
 →大きすぎる承認欲求では仕事が出来ない、というのはその通りだと思います。ただ、「ダメオタ」扱いされすぎる程の状態が続いて入れば、大抵の人はやっぱり辛いとも思います。どこかで十分に承認欲求/所属欲求を得られる人ならいいけれど、そうでなかったら職場であまりにも打たれ過ぎると続かないような気がします。
 



端折り気味ですが、大筋としては以上のような感じでした。第三回は3月下旬に放送する予定です。ご静聴ありがとうございました。
 

*1:例:初音ミク報道、など

*2:ただし、凄むだけのの担保が無ければ軽んじられるだけで悲惨だとは思う

*3:最近の若いオタはどうだろうか