シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「与えられる豊かさ」と「我利我利亡者という貧しさ」の狭間で

 

手作り結婚式 - jkondoのはてなブログ
 
 id:jkondoこと近藤さんの記事は、時にポジティブすぎて眩し過ぎると感じることがあるけれど、今回の記事は素直に「いい記事だなぁ」「確かにその通りだなぁ」と思うことが出来た。以下に、一番いいなぁと思った所を抜粋。
 

最近、豊かさというのは、何を持っているかではなくて、何を与えられるかで計るべきだと思うようになった。人に何かを与えられるということは、それを与えられるだけのゆとりがあるということだ。それが豊かさではないか。
(中略)
インターネットで生活を豊かにしよう、というのははてなの一つの目標なわけだけど、豊かさというのはそういう種類のものであればと思う。

http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20080218/1203289933

 
 確かに。そういう意味の豊かさは、物質的な、または技術や知識の上での豊かさとは必ずしも比例しない豊かさで、人間関係のなかで満足や幸せ気分を体感できる・体感させることの出来るような豊かさというのは、近藤さんの言うような「なにかを与えられる豊かさ」にかなり近いと思う。もちろん、何かを与えるにあたってはバックボーン最低限は求められることは言うまでもなく、与えるにあたって、技術や知識を要する場合や僅かばかりの金銭があったほうが良い場合はあるだろう。互助の精神や価値観そのものすら時に世襲制であることなどを考えるにつけても、「なにかを与えられる豊かさ」を持った人というのは単純な「やさしさの有無」「思いやりの精神の有無」と言い換えるわけにはいかない、実際に豊かな背景を持っている(または積み上げている)のだろう、と想像する。「なにかを与えられる豊かさ」という境地に一個人が辿り着くまでの背景や因果因縁まで含めて考えると、人生のスタート時点における格差なり、日々積み上げられる行いの堆積なりに思いを馳せずにはいられない。
 
 そして、近藤さんのいう「与えられる豊かさ」を想像するうちに、「貧しさとは何か」について考えずにはいられなかった。貧しさとは何だろうか。対比されるべき貧しさは、やはり「もっと欲しい」という渇望や、我利我利亡者の精神ということになるんだろうと思う。財貨・技術・知識を幾ら積もうとも、それらをもっと欲しがり、しかも自分で独占したいと思う人は、大層貧しいと言えそうだ。
 
 
 そういえば、ジャン・コクトーの格言に、以下のようなものがあった。
 
 富は一つの才能であり、貧しさも同様に一つの才能である。金持ちになった貧乏人は、贅沢な貧しさをひけらかすであろう。
                               ジャン・コクトー[恐るべき子供達]
 
 現代社会、特に現代の日本社会で「与えられる豊かさ」を持つにも、おそらく最低限度の財貨や(様々な意味の)能力が必要になるだろうとは思うが、一方で、手にしている金銭や享受しているサービスが相当に豊かになった筈なのに、「与え合うことが出来ない」人や、声を嗄らして「下さい!僕に下さい!」と叫び続けている人がとても沢山存在している*1。「与えられる豊かさ」と「下さい!僕に下さい!」の分水嶺は、一体どこにある(あった)のだろうか。そして、「与えられる豊かさ」という境地に今から方向転換したいという人は、どう行動するのが適当なのだろうか。
 
 ただ金銭を積めば良いという話ではない。知識を詰め込めばそれでokというわけでもない。当然だが「お洒落になれば幸せになれる」とか「男女交際にこぎつければゴールイン」とかいった話でもない。しかし、近藤さんが今回指摘したような豊かさを見過ごす人は、実際にあまり満足な生活には辿り着けないと思うし、それこそ「贅沢な貧しさをひけらかす」「執着無間地獄に落ちる」のがオチだろうと僕は思う。この「与えられる豊かさ」に合致するような“何か”の有無は、人生行路が何色なのかを規定する重要なファクターなのは殆ど間違いが無く、およそ汎用性の高い適応を長期的に維持することを望んでいる人にとって、「与えられる豊かさ」という境地や、その境地に向かう道程について考えてみることは、極めて重要な筈だと思う。そこまでは分かってはいるけれど、それを言語化しようという野心は自分にはまだ無いし、とうてい無理のような気がする。今はただ、「自分が仲良くしようと思った人達や縁を結んだ人達に対して、何を自分が為しているのか・何をして頂いているのか」を何度も振り返りつつ、日常を律していくだけだ。
 
 「与えられる豊かさ」という境地に未だ遠い場所から、そんな事を考えながら、近藤さんの文章を拝読させて頂いた。
 

*1:ここで少し注意しなければならないのは、ヒロイズム的満足の為に救いの手を差し伸べるアクションをとる人達がいるということだ。勿論そういったアクションは、救いの手というアクションを通して自分自身の満足を貪る行為に他ならない、ということが出来るだろう。他人に何かを与える豊かさのうちには、「情けは人の為ならず」という部分が必ず含まれてもいると思うが、あざとすぎるヒロイズム・ジャンヌダルク気分というのは流石にまずいだろうな、とは思う。そして、あざとすぎるヒロイズムは、見る人が見ればすぐに看過してしまうものだ。