シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

機能不全を呈しながら暴走するバレンタイン

 
 毎年毎年、男女を一喜一憂させているといわれているバレンタインデー。しかし、以下の記事を読むと、一体バレンタインって何なんだと改めて首を傾げてしまわずにいられない。
 
 
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080206/trd0802060816002-n1.htm
 
 バレンタインが生む心の重圧というと、ネット界隈では「貰えない男性」の悩みが話題になりやすいが、何のことはない、渡す側だって辟易している部分はあるということなのだろう。勿論、「この人にだけはあげたい」という人には嬉々として彼女達もプレゼントを贈るのかもしれないが、ここまでおおっぴらになってここまで慣例化・儀礼化してしまったバレンタインにおいては、もはや、本当に贈りたい人にだけこっそり贈れば良いというほど話は単純では無くなってきているし、貰う側も貰う側で「貰ったら嬉しい」というよりは「貰わなければがっかりする」という部分に意識が集まりやすくなっているのかもしれない。高校生ぐらいの男の子が、女の子から初めてチョコを貰うようなケースはこの限りではないだろうが、そのような幸福な例外を除けば、このバレンタインという日に満足や感謝を応酬出来ている人というのはかなり減っているような気がする。wikipediaをみるにつけても、歳をとればとるほど、この日を迎えることに辟易する人の割合は多いようだ。(参考:バレンタインデー - Wikipedia)
 
 かつては日本でもバレンタインデーは「好きな人や感謝したい人に贈り物やチョコを贈る日」だったのかもしれないが、長年にわたってこの習慣に曝され、義理の確認やら習慣やらとして処世術的に身につけるに至った人にとって、バレンタインはもはや「好意や感謝の贈与」というよりは、それ以外の何かの為に機能するようになってしまっているような気がする。貰う側も貰う側で、「ありがたい」「嬉しい」という気持ちを痛感出来るのはバレンタイン経験のまだ浅い年代(それも、期待されるべき対象から幸運にもチョコをもらえた場合や、期待されるべき対象に幸運にもチョコを贈れた場合)だけで、義理の確認という意識を持ちながら贈与したり、貰いたい対象から貰えなかったことに不満感を感じたりする人が年々蓄積しているんじゃないかと思う。「好意や感謝を示すためのバレンタインデー」を、それとして楽しんでいる人・バレンタインデーがそれらしいバレンタインデーとして機能している人って、今どれぐらいいるんだろう?
 

一体誰がバレンタインデーを楽しんでいるのか?

 
 今、バレンタインデーを「好意と感謝の日」楽しんでいる人というのは一体誰なのか?を考えてみる。すると、
 
1.好意や感謝を示したい相手がいて、その人にあげたい女性2.貰って「ありがたい」「嬉しい」と感じ取ることが出来る男性
3.義理だろうが何だろうが貰って嬉しいぐらいにチョコが好きな男性
4.義理でも何でもとにかくチョコをあげたい女性
5.バレンタインにかこつけてチョコを加工することが楽しみな女性
 ぐらいが一応は思いつく。
 
 
 こういった人達は、とりあえずバレンタインデーを楽しんでいると言えそうだけど、果たしてこういう人がどれぐらいいるのだろうか。儀礼にすっかり飲み込まれている女性や、手作りチョコを作りたいとはあまり思っていない女性、チョコが貰えない男性や、貰っても「義理や儀礼が届けられた」と思ってしまう男性などは、多分あんまりバレンタインの恩恵に浴することが出来ない。にも関わらず、長年の習慣や世間の空気にあてられるままに、「仕方なくバレンタイン」を過ごしている。チョコを贈与しているからバレンタインの恩恵に浴しているとも限らず、「好意と感謝の日」としてのバレンタインを楽しめる人----多分それはまだ若い男女で、しかも過半数に届くか届かないかの男女と推定する----だけが、実際にバレンタインの恩恵を実感しているのだろう。そうでなければ、3.4.5.のような、もともと幸せそうな人達か。残りの、相当に多くの人は、バレンタインという慣習に「巻き込まれて」「仕方なく付き合っている」。「好意と感謝の日」の筈なのに、そういった機能を持った一日としてではなく、それとはどこか違った一日として消化させられている。「広範囲の人を巻き込むようになったこのバレンタイン」は、もはや多くの人にとって好意や感謝の贈与の日としては機能不全を起こしかけていて、降りたくても降りられない人を巻き込みながら毎年やってきているんじゃないか。
 
 もし、バレンタインという行事に「卒業」や「不選択」があれば良いけれど、メディアの煽りもあってか、そういう空気はあまり生まれて来ていない。バレンタインという行事を一度意識してしまったら、チョコの贈与が義理化した人であろうとチョコが貰えず残念がる人であろうと、空気の流れに逆らうようにして自発的に目隠しでもしなければ「バレンタインの空気」に巻き込まれてしまうのが現状のようにみえる。これは結構面倒くさいことのような気がする。
 
 多分、バレンタインデーが一個人にとっての「好意と感謝の日」として機能するには、おそらく一定の条件なり旬の季節というものがあるんじゃないかと思うんだけど、十分に流通してしまい、降りることを個人に対して簡単には許してくれないバレンタインデーは、義理化・儀礼化してしまった女性や気を揉む男性を巻き込んだまま離さない。本来の、「好意と感謝の日」としてバレンタインデーを迎えたいと思っていない個人に対しても強い重力を及ぼしたまま、今年のバレンタインも暮れ行こうとしている。
 
 

バレンタインを卒業したり、「今年は選ばない」が出来ればいいのになぁ。

 
 こんな、妙に強制力のある、いつの間にかだれかれ構わず巻き込むようになったバレンタインなら、「バレンタイン爆砕」などと言い出すしたがる人が出てきても、まぁ確かにおかしくはないのかもしれない。本当は、「好意と感謝の日」をやりたい人だけがやって、やりたくない人や卒業したい人は自由にやめて良いように出来ればいいのに、と思う。ただ周知の通り、現行のバレンタインはメディアやらお金やら自意識やら義理やらと密接に関連してしまっているので、誰か一人が「卒業しました」「今年は選びません」などと言いはじめても停止してはくれない。いつの間にか人々を絡め取って手放さないようになってしまったこのバレンタイン・システムを改変するには、多分全国一斉に*1やるぐらいの規模が無ければならない筈で、大きなメディアに引っ張ってもらわない限りは難しそうだ。だけど、大きなメディアはチョコレートやスイーツと懇ろな仲っぽいので、この、多くの人にとって機能不全に陥っているバレンタインはもう暫くは続きそうにみえる。
 
 

*1:もしくはせめてある程度「大きなムーブメント」ぐらいに