シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「思春期の遷延」に対するかすかな疑問

 
痛いニュース(ノ∀`) : 30歳過ぎて「アニメ、アニメ」ってどうよ?…オーマイニュース - ライブドアブログ
30歳過ぎて「オーマイ、オーマイ」ってどうよ? - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
 
 上記リンク先の記事を並べて読んでみたらとても面白い。オーマイニュースに書かれていた記事が本筋で、id:republicさんの記事がそのパロディなんだけど、前情報無しに見比べると、一体どちらがどちらのパロディなのか分からなくなってしまう。テンプレートに出来るタイプの記事だった、ということか。オーマイニュースの人が趣味に溺れる若い人を叩き、オタやサブカルな若い人が“時代錯誤の市民記者”を揶揄するという構図は、目くそと鼻くそが雪合戦しているようなもので、自分自身の執着を相手の背中に見出しているかのようにみえる*1。背景にあるメンタリティは、たぶん似たもの同士なんじゃないかと思う。
 
 何を娯楽や慰みとするかは大した問題ではない。結局これも程度問題というか、その趣味に絡め取られて他を犠牲にする度合いがいつも問題になってくる。別にファーストガンダムのガチャを三十代がやったっていいし、爺さん婆さんが新聞の投書欄に投稿したって構わない。ただ、その娯楽や慰みが一人歩きして、「折れた心をなぐさめる」ことに手持ちのリソースの大半を投げかけるだとか、家族も仕事もほったらかしとなれば(普通は)拙いだろう。別にアニメやネットだけじゃなく、スポーツであれギャンブルであれ多分同じで、いい歳してもそれらに現を抜かす度合いが高すぎるとまずいというのが本当のところなのだろう。何歳になってもその構図を引きずって、しかもそれが保守化・固執化していくとなれば恐ろしいしっぺ返しが待っているようにみえる。
 
 「折れた心をなぐさめる」。
 いつまで思春期の夢追いを続けるのか?
 どれだけのリソースを“コンテンツの創造”の名のもとに振り分けるのか?
 
 思春期というのは色々なニュアンスを含んだ時期だとは思うけれど、達成と挫折の混交物を体験しながら、等身大の自分自身とのお付き合いの仕方や、どの分野でどんな風に御飯を食べていくのかを絞り込んでいく時期なんだろう、と思っていた。そして自分自身の可能性や夢追いを適度に刈り込みながら、安定した壮年期を迎えていくものなのだろう、と思っていた。いつまでも思春期を抱えていられる人というのは、ピカソのような例外はともかくとして、そんなに沢山いるわけではない。いたとしても、挫折や破滅を通して段々いなくなっていく。少なくとも私はそう思っていた。
 
 

時折感じる疑問

 
 でも、本当にそうなのか?最近、時々疑問に思うことがある。周りをみてみると、たくさんの人が思春期の余韻を引きずっている。案外引きずっていけている。未熟な葡萄の房のような、可能性という名の幻想だか種だか分からないものをぶら下げながら生きている人が沢山いる。思春期に出会ったコンテンツやメディアにすがりついたまま歳をとっている人達も沢山いる。そしてそんな彼らを支える商品やサービスの供給も、磐石だ。オタクや市民ジャーナリストごっこの世界に留まらず、スイーツ(笑)やテーマパーク耽溺などの場合も事情は変わらないだろう。思春期の夢追いをまだまだ抱えながら三十四十になることは、そんなに珍しい出来事ではなくなっているようにみえる*2。昔なら金持ちの子息でなければ難しかったような、適応形式とリソース振り向けの極端な偏倚が、広い範囲の人に成立してしまうようになった。そして自分達の夢追いが生み出したプロダクツを発表する場も(ニコニコやコミケやblogのように)与えられるようになった。かつては高等遊民でなければ許容されなかったであろう思春期の余韻の引きずりが、相当広い範囲の人に可能になっているようにみえる(少なくとも現在の三十代男女の横断面だけをみていると、そうみえる)。独身を貫いている人だけでなく、結婚・出産していている人さえも含めて。
 
 これは自分自身への問いかけでもあるけれど、自分達は一体、思春期をどこまでどの程度まで引きずって歩いていくのだろうか。今では、思春期の落とし前などつけなくても構わない・つけないほうがむしろデフォルトとさえ言うのだろうか。全員がクリエイターとして食べていけるわけでもない世の中で、沢山の人がいつまで経っても思春期の夢の余韻に時間とエネルギー(とお金)を注ぎ込み続けるというのは、本当はとんでもないことのような気はする。でも、“エリクソンの発達段階”などどこ吹く風とばかりに思春期の余韻を引きずっていける人達の、毎夜毎夜の百鬼夜行を(ネット上などで)みていると、もしかしたら自分自身の考えが保守的過ぎる・古過ぎるのではないか、と疑問を感じることさえある。案外、彼らは彼らで上手くやっていくのか?それともやっぱり思春期の余韻にリソースを費やしすぎた報いに苦しむのか?
 
 現在と数年後を実観測して比較してみれば、この答えはある程度みえてくるに違いない。数年後、笑っているのは誰で泣いているのは誰なのだろうか?*3少し疑問を感じたので、書き留めておく。
 

*1:今回のrepublicさんにはそのような意図は無いと推定することは念のため断っておく

*2:尤も、いつまでそれが続けられるのか・何も当人に災いをもたらさないのかは定かではない

*3:案外、笑っている人はいなかったりして。