シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「萌え文法コード」はそれ単体ではもう楽しめない。けど、文法の恩恵はみんな受けている

 
 萌え文化よ、さようなら。 - Something Orange
 
 文法の取り扱い説明書を読んでも、それ単体ではあんまり楽しくない。けれど、文法に従って楽しいテキストは作ったり読んだりできるよね、と感じた。
 
 上記リンク先を読むにつけても、なるほど確かに「萌え」そのものがオタク文化の最先端シーンを牽引する旬は過ぎたんだな、と私も思う。「萌え」そのものをウリとして打ち出した作品や“ツンデレ”“幼女”などの属性そのものをウリにした作品がこれからヒットするとはあまり思えない。少なくとも20世紀末〜2004年頃ぐらいまでの、新規属性ラッシュのような出来事はもう起こらないのではないかと思う。何が「萌えのツボなのか」という属性の発見と発明は既にあらかた終了し、その代わり、あらゆる作品で広く薄く利用されやすくなっていると思う。まただからこそ、「萌え」はオタク趣味に深く傾倒しているわけでもない人達にも消化可能な形で広く薄く普及するに至ったのだろう。もし、「萌え」がオタ玄人でなければ理解も消化も出来ないままの状態が続いていたなら、現状の、大量生産され大量消費される工芸品としての「美少女キャラクター達」の隆盛にはおそらく至っていないのではないかと思う。
 
 この「萌え」の現状をみていていると、美少女キャラクターを構成する「萌え属性」の文法が遂に完成の段階に達したのではないか、私は思わずにいられない。2008年現在、萌え属性の文法コードに従って組み合わせさえすれば、“美少女キャラクターというテキスト”を誰であってもwrite/readすることが可能になり、過たずにニュアンスを伝達することが可能になった。例えば「ツインテール 目が吊り目 勝ち気な性格」などが組み合わされば「それはツンデレな女の子である」というお約束を、今では制作者側も消費者側も知っている(少なくとも知っている製作者・消費者は無視できない程には増えてきている)。知っているからこそ、そうした組み合わせでさえあれば制作者も消費者もそれを「ツンデレ」としてwrite/readすることが出来る。ツンデレ以外の萌え属性にしても、「○○という属性はこういうもの」という理解が広範囲に行き届いているからこそ、属性を組み合わせてつくられた美少女キャラクターがテキストとして機能しているのだろう。たとい下手な絵の同人漫画であろうとも、少々組み合わせに難のあるMADであろうとも、要領を得ない同人小説であろうとも、ピックアップされている属性の文法さえきちんと守れていれば、キャラクターがどのようなキャラクターで何をどう楽しめば良いのかを消費者側にデリバリーすることは十分可能だ。同人ソフトとしての「ひぐらしのなく頃に」の立ち絵などはまさにこの恩恵を受けていたといえ、萌えの文法を知っている消費者であれば、あの最低限の立ち絵からキャラクターのイメージを正確に膨らませることが*1可能だった。幾人かの人達は、それどころか萌えとは一見関係のないものにさえ萌えの文法コードを適用して、様々な事物に対して「これは萌える」と言ってみたりしている。こうした現象が氾濫するのも、萌えの文法コードが整備され共有されているからのことで、「萌え」は文法コードとして(またはある種の象形文字として)普及したことの証左なのだろうと思う。
 
 もう、「萌え属性」の発見ラッシュの時代は終わった。今後も幾つかの新属性の追加ぐらいはあるかもしれないが、基本的にはほぼ終わったのだろう。そして、少なくともネット界隈においては文法コードは普及段階を終えており、制作者側も消費者側も、「萌え」「美少女キャラクター」の文法コードを自由に筆記・解読することが出来る。この文法コードに逆らわない限りにおいては、多少へたくそな表現であっても、制作者側/消費者側はそれを理解し楽しむことが可能だ----ちょうど、芥川龍之介のテキストの価値が印刷の巧拙とは関係ないのと同様に、文法コードさえ踏まえていれば、たとい絵が下手でも日本語の用法に粗があろうとも「テキストとしてのよく萌えるキャラクター」は巧いキャラとして成立し得る*2----。2004年頃までの萌え属性発見ラッシュの時代は、作品を通して新しい象形文字が発見されるたびに大喜びする時代に例えられ、ここ1〜2年は、発見された象形文字を使ってより広い範囲の人が美少女キャラクターの生産/消費に従事出来る時代に例えられるのではないだろうか。もう、新しい萌え属性はなかなか生まれないかもしれない。だけど、誰もが萌え文法コードを理解している今だからこそ、誰もがコードに従って創り、消費することが可能になっている。「ひぐらし」が、あの原作絵で十分に二次創作作品を引っ張りあげたのも、ニコニコ動画の美少女キャラクターMADが幅広くネタとして消費されているのも、萌えの文法コード普及がじゅうぶん広い範囲に行き渡ったからこそ起こりえた出来事ではないのか。
 
 これからも、多くの作品において「萌え」の文法コードは引用され、制作者側/消費者側に共有されることだろう。平仮名や片仮名のような文字も、文法コードも、いったん確立してしまえばそれそのものは文化作品・芸術作品にはならないけれど、文法コードを用いて表現された様々なコンテンツを擁することにはなる。現に今、エロゲーやライトノベルの外側においても、「萌え」の文法に則した形の可愛さを与えられた美少女キャラクターが氾濫している。私のみている限りでは、誰にでも「これは萌えだね」と読み取れるような明快な美少女キャラクターもあれば、「これは趣深い萌えだね」と唸らされるような巧みな美少女キャラクターも含まれているようだ。文字や文法の整備が終わったからと言って文学や短歌が終わったわけではないのと同様、萌えの文法コードが整備され終わったからと言って“美少女キャラクターというテキスト”が終わったわけではない筈で、これからも様々な“美少女キャラクターというテキスト”があちこちで記述され、推敲されるに違いない。
 

*1:古いオタ言葉で言えば脳内補完することが

*2:そういえば、これと全く同じ構図が携帯小説にも当てはまることに着眼しておきたい。携帯小説もまた「萌え」と同様、キャラクターや物語の文法コードに従う限りにおいては、文法コードの記法を理解する消費者との間において必要十分なコミュニケーションなり必要十分な配達/消費が可能であることを踏まえておかなければ、あれらの作品群の興隆を読み違えることになりそうだ。