シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「何を話せばいいのか分からない。」と思った時こそ「急がば回れ」

 
 「何を話したらいいのか分からない」という台詞は、コミュニケーションに困難を憶える人が口にする常套文句のひとつだ。クラスメートとの話題や異性との交際だけでなく、時にはこの台詞が親子関係や夫婦関係でも聞かれることがあるのが当世事情のようだけど、逆に、何を話せば“正解”なのか分かっている状況のほうが少ないことは言及されることが少ない。そして、正解を求め過ぎること自体が大きな落とし穴であるという指摘も滅多に無い。
 
 よく考えてみれば、夫婦間のコミュニケーションであれ、友人間のコミュニケーションであれ、「これさえ話せば正解」というような話題やセンテンスを特定できることは、実際はそれほど多くない。「台所のどこに胡椒をしまったのか」「今日の天気予報はどうだったのか」「フランスの現大統領は誰なのか」といった問いかけに応えるだけで良い場合なら、何を答えるのが適当なのか先方に指定してもらっているので悩む必要は無いかもしれない*1。しかしそうでない多くの場面では、相手の望んでいることや相手が嫌っていることを見通したうえで最適のセンテンスを吐き出すのは困難で、むしろセンテンスの一つ一つに正解不正解を求めているようでは会話のスピードに置いていかれることになってしまう。だが、コミュニケーションを上手くやろうと思っていると、一つ一つのリアクションや言葉選びに「正解」を求めてしまって動けなくなってしまうことは、誰しもが経験したことのあることだと思う。目の前の会話を上手くやらなければと思えば思うほど、(実際には唯一の正解なんて無いのに)正解の呪縛にはまってしまいやすく、その挙句、可も不可も無い空疎な台詞を口にして却って相手に苛立たれてしまうという経験は誰しもあるのではないだろうか。
 
 自分の場合、コミュニケーションの一刹那ごとに、対象に何を話すのが最適なのかを突き詰めれば突き詰めるほど、かえって言葉が空回りしやすいような気がする。最適でなければならない・上手くやらなければならないという執着と強迫性が強くなりすぎると、そのコミュニケーションは遅かれ早かれ失速してしまいやすい。上手くいかない理由は、「コミュニケーションの正解を探す」という営為自体が、相手の為というよりも自分の執着の為ゆえなのかもしれない。または、正解しなければならないという圧迫感が相手にも伝わってしまって、それが良からぬ影響を与えてしまうのかもしれない。或いは、まだ口もきいていない段階で正解をいきなり想定してかかるという前提が既に間違っていて、会話のなかからお互いにとってベター・ベストとおぼしき方向性を模索していくのが妥当だということなのかもしれない。いずれにせよ、初手から正解や最適解を会話のなかで求めたくなる気持ちの時は要注意だと自分は思っている。そんな時はあまり焦ってもどうせろくな結果になりにくいので、遠回りを気にしないで何でもよいので接点を持ってみて、その会話のなかからヒントを探すほうがマシな結果になることが多い、ような気がする。
 
 

*1:とはいえ、答えが指定されている場合でも、答える際のトーンや語調が先方の期待したものと極端にズレている場合は先方の反応が変化することは心しておかなければならないが。勿論、空気を読んだうえで敢えて期待を外すという選択肢が有効な場面もあるので、唯々諾々的に先方の期待に応れば良いというものでも無い。