シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ファスト風土に陽は暮れて

 
 『ファスト風土』という言葉がある。 ファスト風土とは - はてなキーワードによると、『地方社会において固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、ファストフード店、レンタルビデオ店、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ風景が全国一律となったさま』を指しているという。地方の国道沿いの風景は確かにこの言葉によく合致した景観を呈しており、ジャスコ・マクドナルド・ユニクロ・TSUTAYA・ヤマダ電機のようなタイプの店舗が全国一律にみられ、そこで商品を購入し消費する人達の姿も一律化しているのは事実認識としてそんなに間違っていないと思う。
 
 国道沿いのこれらの地域では、人々は車を使って個別に行き来し、好きな時に好きなものを購入することができ、また生活に困らない程度のサービスを比較的安い金額で享受することが出来る。「ニートでもビデオレンタル出来る程度に」、コミュニケーションの諸機能や金銭的な束縛を受けることなく、大多数の住民が自由な消費と娯楽を謳歌出来ている。と同時に、こうしたファスト風土においては地域社会の地縁といったものは希薄化し、個々人は自由ではあるけれども、文化や価値観の面で断絶されたまま生きていくという代償をも背負わされている。この一連の現象を、東浩紀先生はポストモダン化と関連づけて説明しており(参照:GLOCOM 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」(情報通信ジャーナル連載): 第9回 : ポストモダン 情報社会の二層構造)、アイデンティティの拠り所とインフラストラクチャーの乖離が発生した現況が今後も加速するであろうとも述べている。
 
 この見方に対して、私は同意したくなる願望を持っているわけだが、同時に、本当にそうなり得るのか疑問を感じないこともない。東京都心部のポストモダン空間はさておき、ファスト風土という“地方におけるポストモダンの風景”は果たしていつまで存立し得るのか、或いは今後も加速し続けることが(特に我が国において)可能なのか、について幾らかの不安を抱いている。ファスト風土がファスト風土であるために・ポストモダン社会の要件を満たす為に要請されているものが、果たしてわが国の地方社会において一体いつまでどこまで成立し続けられるのだろうか。
 

地方のインフラは無限ではない

 私がこんな心配を感じるのも、地方のインフラが無限ではないことがいよいよ露呈しつつあるように日々の生活のなかで感じずにいられないからだ。ファスト風土がファスト風土たるには、相応のインフラストラクチャーが整備されていなければ成立しないわけだが、このインフラが何に支えられているのかを考えるとファスト風土は今後斜陽を迎えざるを得ないのではないか、と懸念(?)せずにはいられない。
 
 まず何といっても重要なのは、ファスト風土という地方インフラがモータリゼーションによって成立していることを忘れるわけにはいかない。日本の国道沿いの風景というものは、買い物客も流通も全てがモータリゼーションに依存しており、とどのつまり石油やエネルギーに依存している。ファスト風土は石油という黒い血液によって成立し、電車や自転車で成立する余地のある都心部以上に、エネルギー事情によって(そしてエネルギーや資源の価格に直接影響するであろう、日本円の価値なり日本の国力によって)影響を蒙りやすい。しかし、これからの日本が辿るであろう行く末やエネルギー資源を巡る国際状況を鑑みるに、これまで易々と満たされていたファスト風土の循環血液は高コストにならざるを得ないと予測され、勿論それは商品そのものの値段にも跳ね返ってくるだろう。2005年ぐらいから既に、2001年頃に比べると地方の国道沿いにおいて高級車を見かけることが少なくなってきた印象を私は持っているが、幾ら低燃費車に切り替えるなどして頑張っても、モータリゼーションに完全に依存したファスト風土のインフラは、日本の国力や石油購買能力(そして個人がガソリンや乗用車に注ぎ込める購買能力)の影響を免れることが出来ない。昨今、ガソリン価格が高騰しているわけだが、このような事態はファスト風土をこそ真っ先に直撃する事態で、地方の山野を切り開いてつくられた新しいニュータウンに住んでいる人は大変な思いをしていることだろうと推察する。
 
 地方のインフラに翳りがみえるのはエネルギー資源の問題だけではない。地方行政や福祉医療といった分野においても地方のインフラは苦境にある。地方の県道・市道を維持するにせよ、図書館や体育館といった建物を維持するにせよ、幾ばくかの地方自治体の体力が要請されるわけだが、それそのものが脆弱になっている。そういった地方自治体の提供するサービスが無ければファスト風土は実は成立しないわけだが、その基盤は借金やら過疎やら高齢化やらによって確実に侵されつつある。抜本的な問題解決(もしあればだが)が見込めない限り、地方自治体の体力に関連付けられるような一連のサービスは今後後退せざるを得ない筈で、石油価格の上昇も相まって、ファスト風土の成立の大きな制約になるのではないかと私は考えずにいられない。
 
 そして治安の維持や暮らしの安定という点でも、都市部に比べて大変そうな印象を私は持っている。地域社会の崩壊によって共通理解や共通基盤が失われた今、ファスト風土において遭遇する他人同士というものは(東京都心におけるソレと同様に)一回きりしか遭わないかもしれないその場限りの他人同士であり、遠慮やモラルを効かせてもあまりメリットの無い者同士の出会いに終始しやすい。「お互い様」というコンセンサスを保持しにくい状況のなか、「どこの誰と出会うのか全くわからない」状況のなかで安心して暮らすべく、子どもの送り迎えなどにも神経を使う趨勢自体は都市部だけでなくファスト風土にも広がってはいる。だが都市部はともかく、ファスト風土化した郊外は、セキュリティを保つ為の公的または私的なコストにどの程度まで耐えられるのだろうか、また人口密度の疎な状況下でどこまで効率的にコストを投下できるだろうか*1。かなり困難だと思わずにいられない。監視カメラでも作って安心してみようと思っても、人口密度が低すぎて人口密集地帯に比べて非効率な相互監視しか実現できない*2。かと言って、子どもの送迎やら何やらを全て家族が負担するのも難しく(ガソリン価格が上昇すれば一層難しくなるだろう)、セキュリティの維持という点でもファスト風土はかなり大変そうにみえる。セキュリティに無自覚な人達や、セキュリティが無いほうがあり難い人達はともかく、そうでない大多数の人達にとって、これからのファスト風土でそれなりのセキュリティを維持するのは容易ならざることではないだろうか。
 
 

存立条件が苦しくなればファスト風土は斜陽にならざるを得ない

 このようなファスト風土の存立条件の厳しさを考えるにつけても、今後はファスト風土はむしろ後退しはじめるのではないか、と最近思うようになってきた。モータリゼーション・地方自治体の体力といったものに依存し、セキュリティにせよ道路事情にせよ効率性や採算性を度外視しない限りは都市部と同等の水準が維持出来ないファスト風土は、これからの日本において維持・拡大しにくくなってくるのではないか。ポストモダン社会はインフラとアイデンティティが乖離して二層構造になっているというのはなるほどその通りだと私も思うが、そういった乖離が“実は先進国的・アメリカ的贅沢”であり、“インフラは決してタダではない”“住民の購買能力が必要十分でなければ存立しない”ことを考えに入れながら、田舎にまで浸透したポストモダンとも言うべきファスト風土の行く末について考えてみるのが適当ではないだろうかと思う。存立条件が苦しくなればファスト風土は斜陽にならざるを得ないし、既に斜陽の兆候はファスト風土のあちこちに見え隠れしているような気さえするのだが、どんなものなのだろうか。都市部はいざ知らず、地方社会は一体いつまで“いわゆるポストモダン社会の恩恵”に浴することが出来るのだろうか。
 

*1:尤も、このようなセキュリティ要請は人口密度の疎な地域では先行した不安と捉える見方は可能かもしれない。しかし、かつての地域社会が密に存在していた状況に比べれば、やはりセキュリティの後退は否めないとは思う。

*2:よもや、総ての電信柱に監視カメラをつけておくような真似はできまい。