シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「ねるとん紅鯨団」から僕が教わったこと

 
 自分が思春期に入るか入らないかの頃、土曜日の夜にはとんねるずの「ねるとん紅鯨団」という番組が放送されていた。「ねるとん」は、川辺のバーベキューなどを舞台とした男女のフリートークの後に、男性が女性に告白するという流れのお見合いバラエティ番組だった。誰と誰がくっつくのか・誰が誰を好きなのか、などをテレビの前で喜んだり応援したりしていた僕にとって、頑張って異性にアピールしている男性が女性にOKを出して貰えた瞬間がとりわけお気に入りで、自分まで嬉しくなるような気分になれた。なんとなく恋愛を夢想しはするけれども実際の女の子は未だ遠かった僕と僕のクラスメート達にとって、楽しげな雰囲気の「ねるとん」は月曜の朝の話題におあつらえむきだったと記憶している。
 
 ただ、番組をみているうちに、僕は少しづつ違和感を感じるようになった。違和感というのは、テレビに殆ど映らない男性・番組に出ているのに異性にアピールするでもなく無為に近い有様の男性が混じっている、ということにである。そしてそのような男性のなかには、告白タイムになってはじめて「彼女いない暦○年」というテロップが流れるほどに影が薄い男性までもが含まれていた。せっかく番組に出たのに、せっかく男女のフリートークの場面なのに、彼はどうしてそうなってしまったのだろうか?
 
 幼い僕は最初、それは「ねるとん」の番組をつくっている人達がズルい不公平をやっているからだと思っていた。テレビに何度もうつる男性・女の子とにこやかに話をしている男性には沢山の機会が提供されていて、そうでない可哀相な男性達には女の子と喋る機会が制限されているのではないか、というのが僕の最初の仮説だった。
 
 最初の僕の仮説は半分正しくて、半分は間違っていた。確かに不公平は存在していて、女の子と沢山しゃべることの出来る男性もいればそうでない男性もいたわけだが、それは番組スタッフの仕業ではなかった。男性個人個人の能力や振る舞いによって、女の子と喋ることの出来る男性・アピール出来る男性と、そうでない男性がいることに、ようやく僕は気が付いた。「ねるとん」は、男性も女性も公平にお見合いできる番組ではなかったのだ!少なくとも男性諸氏においては、女の子にアピール出来る人・女の子とコミュニケーション出来る人とそうでない人では、テレビに映る回数も、告白までのプロセスも、告白の結果までもが大きく異なっていた。今考えれば当たり前のこの傾向に気づかなかったのは、僕が幼かったからなのか、番組の編集の妙技ゆえか、それとも僕自身が厳しい現実から目を逸らしたかったからなのかは分からない。しかし気づいてしまってからは、僕の「ねるとん」に対する見方は随分と違ったものになっていた。和やかなお見合いパーティーではなく、地獄の戦場を番組に見出すようになった。十分なコミュニケーションの装備に身を固めた者・ウリとなる特徴を持った者・そして丸腰同然の装備しか持ち合わせず表情の冴えない者達が、それぞれの力量のなかで蜘蛛の糸を手繰り寄せる有様を、僕は巧妙に編集されている番組から透かし覗こうと努めるようになった*1。そういう意味では、「あいのり」などに比べればまだしも「ねるとん」は透かして見えてくる機会の多い番組だったと思う。
 
 良くも悪くも、「ねるとん紅鯨」は恋愛をシミュレーションし過ぎることのない、幼い僕を戦慄させるぐらいには現実を垣間見せてくれる余地を含んだ番組だったと思う。少なくとも僕の場合、男女交際における機会の不公平さ・結果の期待値の不公平さを嗅ぎ取る最初の機会が「ねるとん」だったといえる。クラスメートのなかに恋愛一番乗りがまだ誰も出なかった頃に、早くも厳しい格差の世界を予感させてくれた「ねるとん紅鯨団」。もし、あの番組をみてあの戦慄を味わっていなかったなら、「脱オタ」をはじめとする社会適応への試行錯誤への僕の足取りは、もっともたついたものになっていたかもしれない。 
 

*1:より正確には、努めずにはいられなくなってしまっていた、というべきか