シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私達は、ニコニコ動画で集団的に承認欲求を備給する

 
 
 404 Blog Not Found:ニコニ考 - 承認欲求?ナニソレ?
 
 小飼弾さん曰く、「ニコニコ動画が満たすものは忘我欲求」なのだという。ニコニコ動画の閲覧者とMAD作成者が満たしているのは承認欲求の類とは異なるものではないか、と。そして小飼さんはその理由として以下のようなものを挙げている。
 

ニコニコ動画は、承認欲求、すなわち「私を私として認めろ」という場としては最低とは言わないが、かなり非効率な場だ。「私を私として」認めるためには、「私でない」ものが「私」とくっきり別れてなければならないが、ニコニコ動画では、その動画が誰のものかすらつまびらかではない。

 
 なるほど、「私を私として認めろ」という個人が、個人としてアイデンティファイされたうえで承認欲求を満たす、というのであればニコニコ動画に匿名で投稿するというのはいかにも非効率なことといえる。ましてや、匿名のコメント弾幕などとなれば尚更である。それだったら、顕名のブログで人目を集めたほうがよほど承認欲求を満たしやすいというものだ。例えば多くのブロガーの場合、2chやはてな匿名ダイアリーに投稿するよりも、よく出来た記事ならば自分のブログに発表して自分個人の名のもとに承認されたいと思う人が多いのではないだろうか。
 
 しかし、「私を私として認めろ」という個別的な承認欲求でなければ人は満足出来ない生き物なのか?また、個別的な承認欲求というものを満たし得る能力を誰もが持っているのか?そして個別的な承認欲求というものを(自分のうちに、または他人に対して)アイデンティファイするというのはどこまで当然の前提として見なして良いものなのか?そこの所に疑問を抱いたので、私見を書いてみることにした。
 

  • 個別的な備給ルート以外の承認欲求の経路について

 人は、個別的にしか承認欲求を満たす満足出来ないものなのか?個人個人がそれぞれ異なった人間として認知されることの多い昨今、私達のうちに個別的な承認欲求を求めずにはいられないというニードが高まってきていることには、私も大きな疑問は抱いていない。
 
 しかし、人間という生き物が昔から個別的な承認欲求というものでなければ満足出来なかったかというと、そうではないだろう。例えば少し昔の我が国においては、“企業に所属する一人として”“または雛見沢村の一員として”必ずしも個別的な個人としてではない経路で承認欲求を“集団単位で”備給する筋道が随分栄えていたし、これが個々人の心的ホメオスタシスの安定にも大いに寄与していたことを私は思い出さずにはいられない*1。リンク先の小飼さんの記事で書かれていた“忘我欲求”も、考えようによってはこのような集団的な承認欲求の備給に近いニュアンスなのかもしれない。
 
 ところが、1970年〜80年代の超氷河期世代をはじめ、現在ニコニコ動画に首っ丈になっている多くの人においては、このような集団単位の承認欲求を提供してくれそうな所属集団というものが期待し難くなってしまっている。高度成長し続け、終身雇用制を保証してくれる力強く頼もしいイメージを企業に期待しつつ包み込まれるような“贅沢”を、ニコニコ世代は保証されていない。かと言って、雛見沢村のような、個人個人の村人をがっちりと包み込むような地域社会というものも失われて久しい。このような状況・文脈を踏まえてニコニコ動画の賑わいをみていると、以前であれば企業や地域社会が引き受けていたような、集団や組織を経由した承認欲求の備給ニードをニコニコ動画が案外と引き受けている(代償している)のではないだろうか、と思えてしまう。
 

  • 個別的な承認欲求を満たすハードルの高さ

 素敵なエントリを沢山書いている小飼さんならいざ知らず、そうではない多くのブロガーや多くのインターネット利用者は、個人ひとりで承認欲求を備給しようと思ってもなかなか簡単にゲット出来るものではないし、だからこそアクセス数やら何やらに汲々としている。ブログやら同人誌やらを使った個別的な承認欲求でさえ、どうしても個人的な能力の可否が問われてしまうし、個人的な承認欲求を掴むチャンスばかりでなく、炎上や誹謗中傷も含めた個別的な承認欲求の傷つきの可能性も含んでいる。ニコニコ動画の利用者全員がアルファブロガーのような能力とユニークネスを持っているならともかく、現実はそうではないだろう。
 
 また派遣社員やニートは勿論として、教職員・医療関係者・大企業の正社員も含め、個人が承認欲求を職場で個別に満たす機会は、今、すごい勢いで減っているのではないだろうか。出来て当たり前・出来なければ責任を問われ、褒めてもらったり感謝してもらったりする機会にも恵まれず、コミュニケーション能力が不十分であれば職場の人間関係の内側でも縮こまっていなければならない状況のなかで、個別な承認欲求ニードをどこまで備給出来るのかというと、出来なくて息苦しさを感じている人が多そうにみえる。成果主義が徹底されている業種の場合などは、強大なスペックを持った一握りに万能感を提供できるかもしれないけれども残りの8割〜9割は死屍累々、というのが現実だろう。小飼さんやfromdusktildawnさんや梅田さんといった実力者・成功者の足下には、無名の屍と、実力不十分にもかかわらず万能感と高収入を夢みて燃え尽きようとしている無数の人達がひしめいている。
 
 職場環境において個別的な承認欲求を満たす為のハードルが高くなっている個人にとって、ブログや同人誌といった承認欲求ツールは魅力的に違いない。しかしブログや同人誌を経由した手法さえ困難な(または自信が無くて尻込みしてしまいそうな)人達にとって、2chやニコニコ動画を経由した敷居の低い承認欲求の備給は魅力的な選択肢になってくるのではないだろうか。確かに、2chやニコニコで期待出来るものは集団的な承認欲求の道筋であって個別的な承認欲求ではない。しかし、個別的な傷つきの可能性を最小化しつつ、とりあえず集団的な承認欲求にはありつくことが出来る。ニコニコ動画を見やるにあたっては、安全で能力の担保を求められない備給手段を求めずにはいられない・求めるしかない人達を十分想定しておかなければならないのではないだろうか。またそういった人達こそが、ニコニコ動画にどっぷりと依存せざるを得なくなってしまうのではないだろうか。
 

  • 個人はどこまで個別の個人なのか?

 ここまで、集団的な承認欲求の備給経路について書いてきた。しかし集団的な承認欲求などというと、集団と個人との線引きがかなり曖昧で、集団なり企業なりの承認が個人の承認と地続きという印象を与えるものかもしれない。だが実際、その通りだと思う。小飼さんはおっしゃる、“「私を私として」認めるためには、「私でない」ものが「私」とくっきり別れてなければならない”と。しかし、実際に「私」と「他人」がくっきりと別れて感じられる人というのは日本にどれぐらいいるのだろうか?個人主義が根っこから徹底している地域や、個人契約の世界に長いこと暮らしている人の感性としてなら、くっきりとした個別性を違和感無く受け入れることが出来るかもしえrない。しかし、多くの日本人はどうだろうか?また多くの日本人はそれを望んでいるだろうか?多分違うだろう。私達は、個別的に承認欲求を満たすことだけに汲々としているよりもむしろ、自分の所属している集団や組織を通して、*2集団的に承認欲求を満たすこと望んでいる生き物なのではないだろうか。
 
 また、「個別的に承認欲求を満たす」という時にさえ、承認を与えてくれる「他人」というものと「私自身」との境界線の線引きはどこまで確かなものになっているだろうか?私はこれまた極めてあやふやなのではないか、と考える。例えば私のブログが「はてなブックマークで100人分くらい褒められて」承認欲求を満たした場合などは、私はどうしても褒めてくれたブックマーカー達を間近なものと感じずにはいられない。まして、頻繁に自分を評価してくれる人が現れたりすると、何か他人ではないような、自分に必要不可欠の人であるかのような“錯覚”にとらわれることがある。リアルの友人関係においても、友人達は私自身とは別個の人間であると同時に、私自身を構成する一要素としても体験されている。まただからこそ、そういった友人が急逝した時などには、身を切られる思いに苛まれるわけでもある。そうやって、持ちつ持たれつの日常を、多くの人は望み過ごしているのではないだろうか。
 
 これらを考えるにつけても、少なからぬ日本人は、「私が私として周囲の人とくっきり別れている」とは体感していないのではないだろうか(少なくとも私はそうとしか言いようがない)。村が発展すれば私も嬉しい、私が喜べば友人も嬉しい----そういった相互依存的な、相互に甘えあえるような時間のなかで生きているのが私達ではないかと思う。そんな私達が、もはや企業や地域社会を経由して承認欲求の経路を経たれてしまい、かと言って過半数が実力主義のなかで淘汰され個別的な承認欲求の経路も経たれてしまっている現況に直面して戸惑っている----ニコニコ動画で吹き上がる人達の、金切り声のような弾幕コメントに思いを馳せるにあたって、このような想像力が必要なのではないだろうか*3
 

*1:こういう考え方で再把握する限りに、昔のリゲインCMの「ジャパニーズビジネスマン」やら、モーレツ社員やらも、承認欲求という水準に関する限りにおいては、案外と本人は満足な生き筋だった、ようにもみえる。

*2:または時には自分が憧れる人々の活躍や武勇伝すら通して

*3:そういう意味において、小飼さんの積み重ねた経験や立ち位置というのは、想像の糸を手繰らせるにはかえって不利なものだったのではないか、と思うところもある。小飼さんをみていると、良くも悪くも個別的な承認欲求の道筋に特化し且つ成功してしまい、しかも集団や組織を経由した承認欲求の備給経路に依存しない適応形態をとっている人、という風にみえる。そのような人が、ニコニコ動画のコメント弾幕などを経由して集団的な承認欲求を備給するぐらいしか承認欲求を満たす術を持たない層に対して想像力を働かせることに不得手だったとしても、それほど不思議なエピソードではないようにも思える。