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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

若年世代オタの、「物分りの良い」体裁について考えてみる

オタク趣味 執着

 
http://d.hatena.ne.jp/i04/20071205/p1
 
 1970年代後半生に属する私にとって、リンク先のid:i04さんの文章からは懐かしさを感じずにはいられなかった。私が思春期を過ごしたのは田舎も田舎のオタクコミュニティだったので、文化圏間・文化圏内の“センス競争”や優越感ゲームを部分的にしか直視していないけれど、それでもなおオタクコミュニティの内側に『俺ら判ってるよな』という雰囲気が充満しているのはよく分かったし、それは何もオタクコミュニティに限ったことではなかったと思う。
 
 じゃあ今の20代前半世代がそういった自意識の束縛から逃れたかというと、本当にそうなんだろうか、とも感じた。私はそうじゃないと思う。彼らとて、本当は歳相応に中2病だったり、自意識や劣等感と戦っているのではないか、と私は思う。ただし、若年世代のオタ・サブカル者が一見「ものわかりの良い」「優越感ゲームを大々的に展開しない」ようにみえるのは確かな事実だと思う。そこで、どうして若年世代のオタクコンテンツ消費者・サブカル消費者において優越感ゲームの露出頻度が少なく「物分りが良い」体裁にみえるのかを考えてみようと思う。
 

・棲み分けの徹底
 
 まず、果てしない文化細分化・世代間断絶・インターネット空間のような棲み分けしやすい空間なりによってパーティションによって仕切られているが故に、彼らの優越感ゲームがみえにくいのではないか・他の文化圏に優越感ケンカをふっかけなくなっているのではないか、という疑いを私は持っている。また、オタクコンテンツなどが最たる例だけど、わざわざ他所の文化圏に喧嘩をふっかけなくても、狭いニッチの内側で狭い狭い分野に専門特化することで幾らでも「俺TUEEEE」が出来るようになったというのが、彼らの優越感ゲームの様式をよりマイルドな体裁にしているのではないだろうか。
 
 1980〜90年代と比較して、どの文化圏もコンテンツは恐ろしいほど豊富になり、ジャンルの区分も果てしなく細かくなっていった昨今。そしてネット空間では、ニコニコ動画・ネトゲ・モバゲータウンといった「コミュニケーション能力の束縛からフリーな空間」があちこちに整備されている。思春期を迎えた頃には文化的細分化が進みインターネットも整備されていたということもあって、若年世代は優越感ゲームや自意識の呻きを表面化させずに済んでいるのではないか、と私は疑っている。今じゃ、果てしなく細分化したニッチと膨大なコンテンツのおかげで、恐ろしく細かい分野に特化すれば誰もが何らかのコンテンツなりジャンルなりの専門家気取りになれる。オタクコミュニティの内側などでは、ちょっと特化すれば誰もが何らかのジャンルでナンバーワンになることが可能で、コミュニティの内部で小さなお山の大将を巡ってわざわざ競争しなくても誰もが優越感を備給することが出来る。また仮に、優越感ゲームや自意識の呻きを呈したとしても、個々のネトゲの内側・個々のスレッドの内側・個々のSNSといったローカルの内側でそれらが完結していれば、外部からまなざす私達がそれを拾い上げるのは結構面倒だったりもする。
 
 オタクコンテンツにせよ、音楽コンテンツにせよ、個々のジャンル数がまだ少なく、且つ選択可能なコンテンツも少ない時代においては、そのなかで優越感を備給するには数少ない椅子を巡って争うか、(例えば映画オタがアニオタをくさすように、またはアニオタがラノベをコケにするように)文化越境して他の文化圏を貶めなければ個々のプレイヤーが優越感をゲットすることは難しかったかもしれない。が、今はそんな時代ではなく、限りなく沢山のジャンル、限りなく沢山のコンテンツ、そして限りなく沢山のスレッドやコミュニティが存在している*1。若い世代は、わざわざ他所の文化圏に喧嘩を売りに行って優越感を備給しなければならない状況とはフリーに*2オタなりサブカルなりのコンテンツを消費しているのではないだろうか。2007年には、ニコニコ動画という、同好の士で吹き上がるのに格好の空間も整備された*3。目に見えない狭いコンテンツ空間やニッチで、幾らでも優越感をゲット出来る“環境”が整備されたことが、大きな要因ではないだろうか。
 
 より若い世代でオタクコンテンツを消費している姿を確認するべく街に出かけてみると、コンテンツを通した優越感の備給のあり方なり、自意識の癒しなりを垣間見る機会にまだまだ遭遇する。ネトゲ界隈・音ゲー界隈・シューティング界隈などで10代〜20代をみてみれば、彼らがいきいきとして、その狭いジャンルの内側で強い自意識アピールをしている姿を必ずといっていいほど見かける。これらの、誰もがナンバーワンになれるとは限らない、(ニッチの内側では)ある程度競争が発生せざるを得ない分野を観察する限り、分野の内側においてはまだまだ優越感ゲームが迸っていることを確認することが出来る----彼らもまた、自らのニッチの内側では内弁慶をしているのだ、それも過剰なまでに!ポップンミュージックを叩く彼らの後姿・ネトゲのチャットで肥大した自意識を垂れ流す姿は、より歳をくった私達の世代がかつて行ってきた(そして今でも行っている)営みとさして違わないようにみえる、少なくともそういう若年者が狭いニッチの内側にまだまだ存在することを、私はいつも感じずにはいられなかったりする。
 

 ・コミュニケーションにおける優劣が文化圏には規定されなくなったことが周知徹底された
 
 表立った優越感ゲームが後退したもう一つの理由として、[ヒエラルキーを規定する重要な因子はプリミティブなコミュニケーションスキル/スペックであり、選んでいる文化コンテンツではないということ]が若年世代において周知徹底されてきたことも、あるのではないだろうか。
 
 どんな音楽を聴いていようが、どんな番組をみていようが、「キモいやつはキモい」。結局のところ、オタクだからキモいのでもなければお洒落な映画をみているから格好良いのでもなく、(審美的なものも含めた)コミュニケーションの諸実行機能の可否によって対人関係の可否や位置づけが規定されやすいことを、若年世代は私達よりもずっと骨身に染みて知っていて、だからこそ「無駄なことはせずに」「物分りよくコミュニケーションのヒエラルキーに従って」行動しているのではないか、と私は疑っている。
 
 対して、1970年〜80年代の私達においては、コンテンツ間にピラミッド状のヒエラルキーがあるのではないかとか、勉強が出来るやつが偉いんじゃないかといった「神話」を信じ込む余地が多々あった。だからこそ、他の文化圏のコンテンツ消費者を小馬鹿にするメソッドが優越感ゲームとして成立しやすかったかもしれないし、だからこそ痛々しい優越感ゲームの対外的露出もあったのかもしれないが、今の若い世代は、そんな「神話」をあまり信仰していないようにみえる。文化的細分化と文化的棲み分けが進めば進むほど、どのコンテンツが偉いとか痛いとかいった比較が困難になってこよう(星の数ほどの、個人が知りえるより遥かに膨大なコンテンツの大海が広がっているのだから!)。そうなれば、個々人が共通したヒエラルキーの基準として捧げ持つことが出来る価値基準が(通文化的な)コミュニケーションの諸機能に一本化される度合いも高まる筈。そうした状況を骨身に染みて叩き込まれながら思春期の前半から過ごしてきた人達が、時代遅れになった「神話」を信じて育った上の世代とは異なる振る舞いを身につけていることに不思議は無いと思う。
 
 今更、音楽を自慢したり『Airをみない奴は人生損している』と言ってみたところで、キモいやつはキモいし駄目なやつは駄目なのだ;そういう共通認識が、若年世代においてはより徹底していて、だからこそ痛い子が痛い優越感アピールを諦めやすくなっているのではないか、と私は強く疑っている。自分の所属する文化圏をアピールする時代は終わり、コミュニケーションの実行機能に分相応な振る舞いを身につける利口さを、彼らは身につけているのではないだろうか。そして対照的に、より歳をとった世代が痛い優越感アピールをやってしまうのは、コミュニケーションの諸相に関する「神話」を信じていたい気分が未だに払拭しきれていないからではないだろうか*4
 
 ・反面教師効果
 
 また、これはもしかすればの推測だが、エヴァブームやら何やらでメディア上に踊った「吹き上がったオタク達のあられもない優越感ゲーム」を目の当たりにした若年世代が、そういった痛々しい姿を通して学習してしまい、「お利口な振る舞い」を身につけてしまった可能性もあるかもしれない。コンテンツを使った優越感ゲームにせよ、それ以外の「神話」にせよ、上の世代が体験した諸々の状況を下の世代が知らないわけが無い。もはやコンテンツを自慢する手法ではコミュニケーションのヒエラルキーを規定することも女の子をゲットすることも出来ないことを肌で感じとっている若年世代が、そのような行為に拘泥し、痛々しいまでの優越感を露出させて相争っていた70年〜80年世代を反面教師としていても、不思議ではないだろう。中年化しつつある私達の世代の後ろ姿をみながら育った彼らが、適応を最適化するにあたり「ああいうおじさんの真似をしても、モテないよね」という教訓を学び取るとしても、さほど違和感は感じない。この反面教師効果は、どうだろうか。
 
 

「ものわかりが良い」ことは良いことか

 以上、仮定の話として、若年世代が表立った優越感ゲームを呈さない・痛々しい自慢大会を呈さない「ように見える」所以について考えるだけ考えてみた。これが正鵠を射ているのか大ハズレなのかは、私には判断がつかないが、ゲーセンやらネトゲやらの内側で猛然と吹き上がっている若年世代をみる限り、「ものわかりが良く」「外部に向かって愚かしい優越感の発露はしないけれども」、メンタリティの構造の面においては、案外と優越感ゲームを必要としているようなメンタリティ(そうしなければ自信が保てないような)を引き継いでいるのではないか、という印象を私は拭い去ることが出来ない。尤も、コミュニケーションの実行機能を整備している若年世代においては、この限りではないかもしれないけれども。
 
 ただし。
 若いうちから優越感ゲームの露出をあくまで狭いコミュニティ・ニッチの内側に限定し、外に向かって吹き上がらないクレバーさを身につけることが望ましいことなのか、中〜長期の適応を促進させる巧い方法なのか、については慎重に検討しなければならないと思う。例えば中2病というのははしかのようなもので、大人になっていくプロセスのなかで一度は潜り抜けておいて損が無いものだと思うけれども、過度に「ものわかりが良い」人においてもしそういったプロセスが無いとしたら、それはどのような意味を帯びてくるだろうか。勿論、何歳になってもコンテンツで優越感ゲームばかり、というのは痛々しい振る舞いではある。けれども、まだ歳若い頃から「ものわかり良く」「分際を弁えて」、小さなニッチの内側でだけ人知れず吹き上がるという構図が彼らのうちにあるとすれば、彼らの心的ホメオスタシスは今後どのように維持されていくのだろうか。十分にコミュニケーションの実行機能を持っていて、コミュニケーション空間でキャッキャ出来た若年者はともかく、コミュニケーション空間では抑圧されながらも、尖った自意識を表面化させることなく心的ホメオスタシスを保ち続ける若年者は、本当に適応巧者と言えるのだろうか。文化的細分化に特化した棲み分けに成功した者として注目するのが適当なのか、それともコミュニケーションの諸相から一層徹底的に落伍した者として注目するのが適当なのか、彼らをまなざす態度を私はまだ決めかねている。
 
 

追記:コメント欄をご覧下さい

 
 今回は、コメント欄になんだか非常に面白そうな指摘をi04さんとheartless00さんから頂きました。このお二方がコメント欄に書いてくれたことも加味しながら考えないとまずそうです。「疎外感」「孤独への不安」。とてもよい応酬が出来たなぁと思ってます。※2015年注:はてなブログに移籍した時にコメント欄の記述が吹っ飛んでしまいました。残念。
 

*1:まして、インターネット空間ではそれらを自由に選択することができるのだ!

*2:より正確には、相対的に、フリーに

*3:だが、それでもファンとアンチでくさしあい合戦が連日繰り広げられているというのがなんというか

*4:しかし時々、若年世代においてもこのような神話にかじりついている人をみかけることはあって、なかなかに興味深く拝見させて頂いている。