シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

三度の食事は優越感、三時のおやつも優越感

 
優越感ゲームに動員されるiPodと音楽 - シロクマの屑籠
 

 iPodのようなアイテムや、バリエーション豊かな音楽などの各種文化的コンテンツが「あなたはとは異なる人間であること」「あなたと違ってくだらなくない人間であること」を自分自身に言い聞かせるうえで有効であることは上記リンク先で述べた。述べたわけだが、さて、こういったことはコミュニケーションに不遇の人達だけが、こっそりと影でやっていることだろうか?否、断じて否。そりゃあ「出るくいは打たれる」状況で「出っ張る力のない人達」においては、影でコソコソiPodを聴きながら踏ん反りかえっていなければならないかもしれない。だが実際にはそうではない人達もいる。コミュニケーション上の制約さえクリアーできるなら、もっとおおっぴらに自分が優れていると思うコンテンツを「他の人達にもわけてあげてじかにほめてもらう」ことだってできるし、特定のサービスにおいては、公然と優越感のシンボルに耽溺することが(お客さん側には)許容されもするだろう。優越感ゲームは必要なら影でコソコソ行うこともできるし、他の人には手の届かないコンテンツ・普通は不味くて手を出したくないようなコンテンツを選ぶことによって「そうそう他の人に侵されない聖域」をつくりあげることも可能だが、わざわざそんな面倒くさいことをしなくて良い人達は、もっと素直に優越の気分にありつける。
 
 自分自身の所属するコミュニティの内側において、コミュニケーション上・政治上のアドバンテージを持っている状況であれば、優越感ゲームは影でコソコソやるどころか、もっと顕示的に、周りに喧伝するような形で実行することができよう。コミュニケーションの素養に恵まれている人で、周りの人にも認めてもらえそうな面白いテレビ番組や動画を紹介できる人は、自分で自分を褒めてあげるまでもなく、優越感を備給することが可能だし、現にそうしている。尤も、日常的に面白がってもらえたりチヤホヤされそうな人ならば、がめつく優越感を備給しなければならないメンタリティが次第に後退して、よりマイルドで社会性の高い承認と優越感の備給が可能になってくるかもしれないわけだが*1
 
 そうやって周囲の人達を優越感ゲームに動員できない人でも、コソコソしないコンテンツ消費を通して優越感をゲットするぐらいなら、大抵の人がやっているように見受けられる。例えばスイーツめぐりやカフェめぐりの類、上等なインテリア、高級車、「プレミアム旅行企画」の類などは、周囲の人達を動員することはない代わりに、主として金銭を支払うことによって*2サービス・コンテンツを通して自分達の優越感をゲットすることができる。iPodで優越感ゲームをやらかすのに音楽センスが特に要されないのと同様に、この手の優越感ゲットに際して必要なのは繊細な舌でもなければ敏感な感受性でもない。むしろ感受性やら繊細やらといったものは不要とさえ言えるかもしれない。スイーツやらカフェめぐりやらを利用して優越感を「的確に」ゲットしたい個人に要請されるのは、それらのコンテンツ(コンテンツには、例えば店内にかかっているBGMやら店員の言葉遣いやらといった雰囲気が含まれている)がもたらす雰囲気に我を忘れる能力であったり、「プレミアム」「産地直送」「有機野菜」といった語呂に陶酔できるような能力であったりするだろう。だが幸い、そういったものに幼少期から取り囲まれている私達は、ちょっとムードの良い音楽がかかっているだけでコロッとやられたり、ラーメン屋の「空気」に感染したりすることに十分に訓化されているといえる。サービスを提供する側も提供する側で、客を選ぶサービス業者などはあまりおらず、お金さえあれば大抵の飲食店やコンテンツにアクセスすることができる。
 
 腹が減ったからカフェに入るのではなく、優越感を食うためにカフェを選ぶのが私達ではないのか。面白い番組を見たいから番組をみるのではなく、「面白い番組を知っている人だね」といってもらう為に番組をみるのが私達ではないのか。勿論それがすべてなわけでもなく、極度の空腹に際しては牛丼チェーンなりカロリーメイトで十分だし面白い番組はやっぱり面白がってはいるわけだけれど、「どうせ食べるなら」「どうせみるなら」優越感と承認のためのツールとして用いることができるものを選びたくなる私達の心性を無視することは出来まい。よって、三度の食事も優越感、三時のおやつも優越感、という図式になってくるわけである。「いついかなる時も、承認を得られますように、いついかなる時も、ライバル達に差をつけられますように。」うんざりである。しかし、この図式から逃れることは、メディア・コンテンツ・「コミュニケーション」に漬け込まれた私達には極めて困難なことのように思える。他人の鼻につくような優越感ゲームになってしまうか否かはともかく、日常的に優越感と承認を巡る執着にとらわれていない人など滅多にいないように私にはみえてならない。
 

*1:しかし、こういうことを考えると、優越感ゲームは既に優越感の備給に恵まれた人においてほどマイルドで波風の少ないものになりやすく、恵まれない人においてほどガツガツとした波風の立ちやすいものになるのではないか、優越感の資本主義だ!と言う人があるかもしれない。私はそれを部分的には肯定するが、部分的には否定するだろう。概ねそうではあるにせよ、いくら褒められてもがつがつ優越感を備給する人というのもあるだろうし、より少ない優越感なり承認なりでまず十分という人もあるように見受けられるからだ。それどころか、強迫的に優越感を追い求めて暴走する人まである始末なのだから。

*2:そして金銭の支払いと密接に関係しているメディアの介在によって