シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自己承認を滅却するのではなく、単に防衛するだけでは「まさに虚勢」ですよ

 
 http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071118/1195390374
 
  
 脱オタなるタームへ拘るオタは、確かに二十代後半〜三十代の男性オタに多い気がします。私達の世代と比べた時、二十代前半の世代においては、オタク趣味だけに一点賭けすればオタク界隈の外側とのコミュニケーション可能性は望み薄になるという事実が、既にコンセンサスとして出来上がっているようにみえます。このコンセンサスが無いからこそ、上の世代は「僕達はオタク趣味を楽しんでいる、しかし異性とも交際したいしコミュニケーションの範囲が狭くなることは納得出来ない」と憤怒しやすいかもしれない。けれども、より若い世代においては「そんなのは当然のことで、オタク趣味を選ぶならオタク趣味を楽しみながらもコミュニケーションの諸能力もキープしておくべき」または「もう最初から駄目なものは駄目」と諦めてかかるしかない、と思っている人が多いのかもしれません。これはご指摘の通りかと思います。前者の例としてはid:kir_royalさんが、後者の例としてはid:heartless00さんが該当するのかもしれません。
 
 要はコミュニケーションの諸能力の有無によって、異性との交際可能性やスクールカースト的問題が既定されてしまう(そしてそれはオタク趣味の有無とは必ずしもイコールではない)というポイントが、(1970年代後半生などとは異なり)より若い世代の人達には周知徹底されているのではないか。だからこそ、二十代前半のオタクはコミュニケーション諸能力にもエネルギーを振り分けたハイブリッドな適応を達成してしまうか、heartless00さんのように「ものわかりよく諦める」のか、この比較的二者択一的な選択に流れていくのかな、と思うのですがどうでしょうか。
 
 このような理解に立つ若い世代の人達からみれば、オタク趣味の有無や濃淡ではなくコミュニケーション諸能力の可否によって適応の幅が既定される事がみえみえだというのに「脱オタ」などという単語を用い続けることに違和感を覚えるのは至極当然のことと捉えられるでしょう。私自身、脱オタという単語は「コミュニケーションに関する諸能力と劣等感の改善の試み」とでも言い換えるのが適当だと思ってはいますが、なかなか良い語呂がみつからず、頭を抱えているところです。確かにこの単語は耐用年数を既に過ぎているとは思うんですよね。
 
 それはともかくとして、heartless00さんの態度は「恋愛なんて放棄する」「コミュニケーションもセックスも不要」とし、その中核たる承認願望を放棄することを目指している、と私は理解することにしました。そしてそのようなものの重要性を説く人を非難する、と。なかなかに本田透的な、非モテ的な物言いだなと思います。で、去勢、ですか。
 

承認願望そのものの虚勢は文字通り性器を切り取る、ものすごい覚悟と痛みを伴う、ある意味では自ら命を絶つことよりも苦しいことなのです。それでもがんばろうとしている者を邪魔する権利がこいつにあるのかと。

 確かに、ものすごい覚悟と痛みを伴うことだと思います。ですが、そんなこと本当にできるんですか?図らずもheartless00さんは去勢を虚勢、と誤変換したわけですが、まさにそれは虚勢であり防衛ではないのでしょうか。本当に切り取ろうとして切り取りきれる、離脱できるものなのでしょうか?それが去勢ではなく虚勢である限り、年余を重ねるごとに虚勢はその度合いを増し、防衛によってマスクされていた承認願望は一層煮立っていくのではありますまいか?このような極めてハイリスクな虚勢スパイラルの可能性を秘めた態度を中学生のうちに決め込むというのは、一見ものわかりの良い処世のようにみえますが、heartless00さんのメンタリティというのは、そんなにスマートに出来ているんでしょうかね?承認願望を滅却できるんでしょうかね?heartlessになれるんでしょうかね?そのような物言いをこそ、私は「嘘だ!」と断じたくなってしまうのですが。
 
 
 1970年代〜1980年代のオタク達がある種の幻想から目覚めなければならないというご見解には同意できます、しかし、だからと言って自分が内在させている承認願望を「殺す」ことが適当とは私には思えませんし、「殺せる」とも思えません。ただし「殺さずに蓋をする(防衛する)」ことは可能でしょうし、承認願望の強さと実際に承認される度合いのギャップが大きければ大きいほど、防衛を要請する度合いも強くなることでしょう。ですがそれはあくまで防衛であって、内在する承認願望は檻の中のケモノのようにheartless00さんのメンタリティを疼かせ続けるんじゃあないでしょうか*1。そして防衛機制を要請する度合いも強く強くなっていくのではないでしょうか。さらに言うならば、承認願望の強さはそのような道筋のほうがむしろ滅却しにくいのではないでしょうか。
 
 私はむしろ、「二次元への逃避を徹底させれば何とかなる」とか、「承認願望と付き合っていくのではなく切り取ればいいんだ!」とかいった絵空事のほうが遥かに達成見込みの低いもののような気がしてなりません。確かに承認願望を認めるのは辛いことだとは思います、特に承認願望が満たされていない時には。しかしそれを「なきものに出来る」「切り取ることが出来る」かというとそんなの無理なんじゃないかと思うし、控えめに言っても(引きこもりなどの、承認願望に飢えた)万人に奨められるものじゃないと思うんですよ。「みんな脱オタすればいいじゃん」などと言ってしまえば胡散臭くなるのと同じように「みんな自己承認を去勢すればいいじゃん」と奨めるのも胡散臭い。どちらも、使いたい人・使える人だけがやればいいと思いますし、どちらもあって良いのではないかと思っています*2。ただ、承認願望という、おそらくは生得的に存在するであろう願望を(防衛するのではなく)滅却することと、コミュニケーションの実行機能を少しでも強化していくことを比べれば、まだしも後者のほうが可能性未来があるような気がしますし、それはheartless00さんのような若年世代においては尚更のように思えることは付け加えておきましょう。
 

本当に承認願望を滅却しようと頑張ってる、んですか??

 
 ああそうそう、本当に承認願望を滅却する・出来るというのなら、他の人が承認願望を追い求めて頑張っている様子とか、承認願望を追い求めることを良いこととする言説とか、そういうの気にしないで自分自身の滅却修行に没頭すればいいんじゃないですか?と思います。周りの言説をみている暇があったら、もっと他にするべきことがあるんじゃないかと思いますし、そもそも、周りの言説にナーバスになる必要も、言説をブログに書き記す必要もありますまい。脱オタに言及したうえで承認願望の滅却作業の邪魔だ、などとわざわざブログ上で指摘すること自体が、承認願望滅却作業に反するんじゃないんでしょうか?それとも本当は承認願望に飢えているか、今この瞬間さえも承認願望を備給してる真っ最中ってことなんじゃないんですかね?承認願望大好きな私には、まぁ、そんな風に思えることもあったりするわけです。ほら、ブックマークも沢山ついてるわけですし?如何でしょうか。
 

*1:勿論、ケモノは年余を経るごとに段々大きく凶暴になっていくわけです

*2:それとも、heartless00さんは「去勢はあって然るべき、脱オタはなくて然るべき」という所まで踏み込んで物言うつもりでしょうか?もしそこまで仰るというなら、もはや話し合う必要もありますまい