シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

拝啓、革非同id:furukatsuさま

 
 

 革命的非モテ同盟跡地
 
 「革命的非モテ同盟」なるものが、今現在、社会運動集団としてどの程度機能を維持しているのかは不明ですが、少なくともそのようなblogの主催者としてのid:furukatsuさんにお手紙を書きたくなりました。
 
 というのも、最近のfurukatsuさんからの拙blog宛てブックマークコメントを読んでいると、色々と考えたくなることや、言葉をかけてみたくなる事が沢山湧き上がったからです。
 

[オタク][コミュニケーション][非モテ]まぁ、理解はする。ただ、迎合するばかりが能でもないと思うが。シロクマ先生には適応はあっても抵抗がないように思えて仕方ない。いや、適応こそ抵抗なのかもしれないけど。
 
[オタク][適応]メシアが来ないならメシアになればいいじゃない。一人一人がメシアとなり社会を変える(たとえ自分の周り半径1mでも)ことが大切だと思うよ。真っ向から否定すべきではないと思う。
 
[社会][オタク]とはいえそれが我々にとって害であるならば、これと闘わねばならないでしょう。基本は自らの利害です。

 非モテという集団に関して、恋愛や非コミュにまつわる不均衡や苦しみを集団レベルで何とかしよう、抑圧と戦おう、とシュプレヒコールするfurukatsuさんが、脱オタをはじめ、同様の不均衡や苦しみに個人レベルで戦うためのtechniqueやartを探求する私に対して、以上のようなブックマークをつけた事に、私はささやかな喜びを感じたものでした。
 
 私は上記のコメントについて肯定したい気持ちが一杯なわけですが、しかし、それはあくまで個人レベルで娑婆世界を泳ぎきるにあたっての抱負としてのものです。「運動」なるものを通して集団レベルで非モテの苦しみを解決しようという文脈において、上記コメントを把握することには困難を感じますが、furukatsuさん個人として、または侮蔑されがちなオタク個々人として、または娑婆世界の政治ゲームの内側で抑圧の只中にある個人の旗揚げとしては、理解しやすい抱負にみえるわけです。
 
 メシアが来ないなら、一人一人がメシアになればいい。全くその通りです。社会運動に依らず、個人が個人的苦闘を試み、社会システムの如何に関係なく、娑婆に臆することなく決起する言葉としてなら、私と言葉を共有することが出来そうです。基本は自らの利害。これも全く同感です。集団だの運動だのに関わらず、人はまず第一に自分自身をどうにかしたいと考えるというのならば、共感できるというものです。furukatsuさんのコメントをみていてまず思うのは、「だったら、社会運動の呈などとらずに、ミクロの個人が個人的営為として何とかする為の、脱オタなり、コミュニケーションに関する諸スペックの獲得なり、オタク趣味界隈へのより深い耽溺に向かったりすればいいんじゃないの?」という気がしてしまいます。
 
 そもそもfurukatsuさんは、今日日、社会運動などという手法が非モテを救うと本気でお考えなのでしょうか?第一に、社会運動が運動として政治的ムーブメントとして成立し得るには、それなりに広い層の心を掴むテーマに関してのものでなければ苦しいと思うのですが、実際には、非モテは所帯の小さなマイノリティなわけです。それよりは、社会保険庁の諸問題や雇用の問題に関連した社会運動のほうが遥かに訴求力と動員性(そして社会問題としての深刻性)はあるのではないのですか。まぁ、そうなってくれば、議題と闘技場はおのずと本格的な(そしておそらくはリスクをも伴う)政治的なものになってくるわけでしょうけど。それに比べれば、若年男子の、しかも男女交際に関する不遇・非コミュという問題は、間口が狭いのではないか、と私は思ってしまうわけです。かと言って、今までの活動を通して、非モテというカテゴリに関するbad imageを払拭することに寄与できてきたのかというと、これもまた、疑問を感じずにはいられません*1
 
 ここで当然、furukatsuさんは仰るかもしれません。「男性非モテに限った問題ではなく、ジェンダーやオタクなども含めた、マイノリティ全般の解放に関連した運動なのだ」と。しかし、マイノリティ全般の解放といったって、まずマイノリティを団結させることは出来るのでしょうか。また、ここでいうマイノリティ達というのは、社会運動として共通のインセンティブを持つ事が可能なものでしょうか。マイノリティの団結と、マジョリティからの抑圧への運動。なるほど、美しい社会運動です。しかしそれには、マジョリティからの抑圧に対する共通したマイノリティ側の運動の動機付けが必要になってくるでしょう。しかし、細分化された現代社会においては、むしろマイノリティと呼びえる人達は、正反対のインセンティブを持つことの多き、小さな部族集団の群雄割拠の呈をなしているのではないでしょうか。それらをまとめて「マイノリティ解放」と言った時、どのような説得力と、どのような具体的運動可能性を持つのか、私は疑問に思えてくるのです。
 
 第一、今日において、マイノリティとは、マジョリティとは、誰なのでしょうか?男女交際において非モテな人が、異なる次元でマジョリティである事もあるでしょう。また逆に、男女交際においてはマジョリティだけれども、異なる次元ではマイノリティとして抑圧を余儀なくされている人もいるでしょう。現代社会において細分化されているのは、文化ニッチや社会的ニッチだけではなく、個人が都市空間で体験する様々の役割や文脈についても同様の筈です。何が言いたいのかというと、現代を生きる一個人は、(そんなの当たり前といえば当たり前なのですが)在る局面ではマジョリティであり抑圧者であり、在る局面ではマイノリティであり被抑圧者じゃないか、団結するったって個人の内側でさえ文脈ごとに抑圧/被抑圧があるっていうのにどうするんですか?ということです*2。もしもfurukatsuさんが「非モテ」という狭いユニットではなく、マイノリティ解放という大きな目標を口になさるなら、一体どこの誰と戦えば良いのか?個人的生活のあらゆる局面における抑圧者/被抑圧者というのは、どこにいるのでしょうか?おそらくですが、大抵の人はその両方であり、マイノリティとしての抑圧・弱者としての抑圧に苦しむ状況は、非モテだけではなく、殆ど総ての人が感じているものの筈です。「マイノリティ全般の解放」というのは、殆ど、現代社会の構造そのもの、或いは娑婆世界の構造そのものとの戦いのようなものにしかみえません。現代社会におけるマイノリティ(それも、個別の局面や文脈の内側におけるマイノリティ)の抑圧全体と戦う、ということは聞こえは良いのですが、実質、娑婆世界そのものに対する体当たりするが如き不可能事のように思えます。
 
 非モテをとにかく何とかする、というのであれば訴求可能範囲が狭すぎ、マイノリティ全般の解放となると絵空事になってしまう社会運動。私には、革非同の営為というものが、このような、社会運動としての成功可能性の乏しいものにみえて仕方ないのです。私は、革非同のやり方では、個々人が個々人のメシアとなって、それがマクロの救済へと団結していくようには信じられないのです。一方、ミクロな個人を自力本願する脱オタ・コミュニケーション修練・オタク界隈への埋没etcは、さしあたって個人のメシアとなる可能性は、(不完全ではあっても)含んでいるわけです。勿論、私がいつも言及しているような諸方法論は、社会システムに変革をもたらすものではありませんし、むしろ社会システムの強化に加担する行為とご指摘するのならば、「はいそうです」と答えるしかないでしょう。しかし、個人の適応という一点に関する限りにおいては、実現可能性の無い(無い、と敢えて申し上げておきましょう)非モテ救済だとか、マイノリティの解放だとか言ったシュプレヒコールに己の未来を託してお祈りしているよりは、メシアたる期待値の高い選択ではないかと、私は考えています。
 

社会システムの内側のカーニバルとしてなら、理解は出来るのですが。

 
 尤も、見方を変えれば革非同の活動も、まるきり徒手空拳というわけではないと言うことは出来るかもしれません。例えばこの活動が、「社会運動」という体裁のもとにfurukatsuさん個人、または参加者個々人が出来るだけ多くの収穫物を活動を経由して入手したいと目論んでいる場合などです。この収穫物とは、具体的には、異性の獲得、発言力の強化や知名度の獲得、またはアイデンティティの一時的備給、などを私は念頭に置いています。furukatsuさん個人の適応に、革非同の営為はそれなりの影響を与えるでしょうし、furukatsuさんの心的ホメオスタシスのマネジメントにも多大な好影響を与えることでしょう。また、他の参加者においても、程度の差こそあれ、得るところがあると言えるでしょう*3。ですが、これは社会運動とはお世辞にも言えないでしょう。体裁を借りた個人個人の我利我利競争と呼ぶべきか、そうでなければ、レクリエーションの類と呼ぶべきものでしょう。もちろんレクリエーションも悪くはないでしょうし、カーニバルの収穫祭をみんな仲良く味わうというのは嬉しいことです。しかし、その営為をもって皆の為の社会運動・社会改革、と呼ぶことは出来るのでしょうか。現今までの革非同の活動をみる限り、(furukatsuさんはじめとする)個人個人が収穫物を奪い合うカーニバルとして・レクリエーションとしてまず機能しているように私などにはみえてしまいます。「ごっこ遊び」でも「それっぽいもの」でも、何もしないよりはずっと良いでしょうし、個人の心的ホメオスタシスの維持向上に寄与するなら、私はそれで一向構わないという気はします。ですが、だとすれば、「革非同が非モテを社会改革を通して救済する」などというお題目は空疎なものと言わざるを得ませんし、所詮、現代社会のシステムに回収される陳腐なカーニバルの一つとして理解するのが適当でしょう。
 
 革命というレトリックを借りた、参加者個々人の収穫祭(あまつさえ、時には収穫物の奪い合い)がやりたいなら、ニコニコ動画で共鳴するほうがお手軽な気がしますし、変な揉め事とも無縁で安全な気がします。社会改革の名を借りた、社会システムの内側におけるカーニバル、一時の自己実現、または発言力や知名度を巡る物語、それが駄目だというつもりは私にはありませんが、脱オタやオタク趣味への埋没と、どれほどの差があるのでしょうか...社会システムの内側で個人個人が我利我利亡者となるという図式は、furukatsuさんのソレと私のソレで大きくは違わないと思います。だったら最初から、「社会改革」というプラカードに幻惑されて内実のカーニバルに気づかずに騙されちゃう可哀相な人を出しかねないやり方はやめて、脱オタなり娑婆世界の研究なりオタク世界への埋没なりの個人的営為について一緒に考えていったほうが良いのではないでしょうか。furukatsuさんとお会いした個人的印象として、あなたの行動力・政治的感性・モテへの願望をみるにつけても、やはりあなたには社会改革などよりも、あなた個人の適応、あなた個人の適応の為のカーニバル、があまりにも似合いすぎる。奇しくも、furukatsuさんの前述のブックマークコメントをみるにつけても、やはり、あなたは先ず第一にあなた個人のメシアではないのですか?だとすれば、そのプラカードをうっちゃって、ストレートにfurukatsuさん自身の適応について考え、行動するほうが近道なのではないでしょうか?そのように考えて、この長い手紙を書いてみた次第です。
 
 如何でしょうか?それでも敢えて革非同という装置を用いて、あなた個人があなた個人のメシアとして個人的適応を追及するというのでしたら、それもそれで結構です。どんどんやっちゃってください。ですが、そうでないやり方で、furukatsuさん個人が、社会改革などとは別個に個人的適応・心的ホメオスタシスの安寧を考えるというのであれば、是非、一緒に考えていきたいと思っている次第です。
 

*1:ただし、furukatsuさん個人に関しては、紳士的な、良好なイメージを私個人は持つに至りました。繰り返しますが、これはあくまでfurukatsuさん個人についてであって、非モテ全般に関する私のイメージは、革非同の運動によって変化していません。

*2:もう一つ付け加えるなら、先進国日本でのうのうと暮らしているという事自体が、既に、より明確なマイノリティとして認知されるべき第三世界の人達を意識すらせぬうちに大搾取しているという、もっとグローバルで残酷な構造を無視して「マイノリティ解放」を口にするやるせなさを引き受ける準備は出来ていますか?とも問うてみましょう。

*3:まただからこそ、その収穫物を巡って、内側で揉め事が起こるということにも理解が及びやすいというものです。