シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

極端な平等主義者の怖さ

 
 平等な状況、というものは自然状態では持続しない。任意の瞬間、平等と呼ぶに十分な状態が形成された時、その平等状態を構成する各人なり各個体なりに僅かでも差異が含まれる限り、一般に平等は時間経過とともに崩壊し、差異化は推進される。
 
 そりゃまあ、各個人・各個体のスペックや性別や位置関係が全く平等であれば、理論上、平等は永遠に平等を保ち続けると思うし、むしろその平等状態から差異を誘導することは不可能っぽいわけだが、娑婆の人間は腕力・知力・胆力も、生まれた年も、生きている場所も様々なわけで、各個人・各個体の所有する能力や座標軸はあまりにもバラバラで、みせかけの平等なり、平等に類似した状態なりを人為的につくりだしたとしても、それが時間とともに崩壊することは明らかだ。
 
 となると、各個人・各個体間にこれほどのばらつきがある娑婆世界で平等/平等類似状態を一定の枠内であっても維持しようとする場合、平等の枠からはみ出そうとする個体を平等の枠のなかに無理矢理引き戻す何らかのシステムが要求される。このシステムがもし十分機能する場合には、落ちこぼれそうな者を高きにすくいあげ、頭一つ飛びぬけた能力を持っている者を押さえつけることになるのだろう。また、平等のみを至上命題とする人にとっては、頭一つ飛びぬけた能力を持った人間を正規分布の中央へと押しやることに躊躇など感じることなどないのだろう。しかし、この状況下では正規分布の真ん中にいる以外の総ての個人は「平等という枠組み」によって抑圧されることを免れない。世の中には、皆の平等と個人の自由という相反する命題を実施しようとする理想屋さんもいるけれども、完全なる平等を目指せば目指すほど、平等の枠組みによって(二項分布の真ん中にいない人は)大きな制約を蒙ってしまうことは覚えておきたい。二項分布の左側の人間は平等を実現する為に背伸びをさせられ、二項分布の右側の人間は平等を実現するために頭を切り取られてしまう。
 
 いや、少々の背伸びや押さえつけで何とかなるぐらいならいいのだが。(任意の次元において)もはや背伸びのしようもないほど「できない」人や、(任意の次元において)押さえつけようもないほど「できてしまう」人というのは、平等の実現にとってきわめて有害な、平等至上主義者にとって悪夢のような存在だ。平等を執行するにあたり、口で言っても手で押さえつけてもコントロールできない平等阻害要因がいるとするならば、そういった個体は平等至上主義者にとって粛清の対象になりかねない。むしろ平等を至上命題にする理想主義者ならば、コントロール不能の逸脱者をすべて粛清の対象という感覚に痛痒を感じてはいけないのかもしれない。
 
 人間は、生物は、すべての個体間に差異を内包している。程度問題としての極端な不平等の均整化は良いとしても、平等への強迫的固執は、どう考えても生物が内包する差異、個人が含まずにはいられない個人差、というものを無視したやばい方向にしかいきそうにない。だが、極端な平等主義者というのはいないようで意外とみかけるような気がする。ああいう人達に独裁スイッチを渡したとしたら、どこまで粛清すれば満足していただけるんだろうか。生物の滅亡までスイッチを押し続けるのだろうか。程度問題や現実問題を無視して平等平等と言っている人達の無邪気な声を聞いていると、ああ、この人達の平等はびっくりするほどディストピアなんだろうなという気がして寒気がする。恐ろしい恐ろしい。