シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

都市空間のスピード・流動性に対して感じる不安

 
 一般に、知的機能の障害は社会適応を大きく制限したり、日常生活の労務に支障を来たしたりすると考えられている。確かに、知的機能の障害があれば、高度な判断を瞬間的に繰り返さなければならない仕事などは難しいだろう。だが、知的機能の障害を持つならば必ず適応弱者というと、そういうわけでもない。自分のスペックを知り尽くしたうえで、知的機能を補い得る幾つかの素養と、適度で流動性の高くない人的環境に恵まれれば、さしたる支障も無く働くことは出来る。例えば、以下のSさんのような場合である。
 

【Sさんの場合*1
 
 XX村の27歳のSさん(主婦)は、障害者手帳B1クラス、中等度の知的機能障害ということになる。しかし彼女を見て知的障害だと即断出来る人はそれほど多くは無い。現在は子どもがいないので、近所の老人介護施設のヘルパーをやっている。施設では、よく働くということで利用者達からも評判が良い。唯一、計算を要する場面では電卓が無ければこなせない場合が多く、そういう類の仕事は他の職員に肩代わりしてもらっている。
 
 彼女がハンディキャップにも関わらず適応を守れているのは何故か。それは以下のようなファクターによると考えられている。
 
1.周囲の人の理解。長年村で育ってきた関係で、Sさんの得手不得手に関しては家族も職場の人達も近所の人も熟知しており、彼女の苦手な事はあまりさせずにいる。苦手な場面に滅多に出会わないからこそ、彼女は一見すると何のハンディも無いようにみえるし、彼女自身が適応のバランスを崩すことは無い。
2.彼女自身の理解。金銭に関する複雑な計算など、自分には出来ないことは出来ないと割り切って家族や周囲の人に任せている。知らない人とはお話しない、などの処世術もリスク管理としては向いている。
3.人的流動性や、仕事の流動性の低さ。村の生活の故に、馴染みの人に囲まれ馴染みの職場に勤め...ということがSさんには可能で、誰もがSさんに慣れているとともに、Sさんもまた誰もに慣れている。職場の仕事は忙しくはあっても内容的にはそれほど大きな変化のあるものではなく、介護施設の性質上、利用者の流動性もそれほど激しいものではない。
4.愛嬌。単にルックスに恵まれている、というだけでなく、Sさんは愛嬌がいい。もう少し真面目に言うなら、非言語レベルのコミュニケーションにおいて、コミュニケーション対象を懐柔する手段にはやけに長けている*2
5.足ることを知っている。自分の仕事と自分の生活、周囲の環境に十分充足していて、高価な品を欲しがったり男をとっかえひっかえしたりしたがったりするような餓鬼道に堕ちることが無い。今の生活とホメオスタシスで既に満足している。
 
 これらが相まって、Sさんは非常に村のなかで嫌われにくい、もっと言えばかわいがられやすい・好かれやすい人物として通っている。村の中の適応は、これらの要件によって厳重に守られ、彼女自身も厳重に守っている。村の外に出れば問題が発生する可能性は高いが、この環境下においてはSさんの弱点は殆ど露出することなく、高品質の適応が達成されている。
 
 
 このように、Sさんは知的なハンディキャップを有してはいるものの、流動性の低い「村」という環境のもとでは殆ど問題の無い適応を達成している。働き者として愛嬌のある人物として周知され、一方では彼女自身が破綻に至りそうな幾つかの可能性を周囲の人達(と本人が身につけた処世術によって)しっかりとブロックしている。知的障害があれば適応は困難かというと、このような事例がないわけではないのだ。流動性が低く相性のあった環境・周囲の人の理解・当人のパーソナリティや執着の強弱、などなどによってはハンディの無い人と殆ど遜色ないかそれを上回る適応すら達成する可能性がある*3。現在の暮らしから大きく逸れず、多くを求めずに生活する限りにおいては、Sさんは適応を維持して生きていくことが出来る可能性が高い、と期待される。
 

では、村ではない環境ではどうなるのか

 ここまで読めば、多くの人は当然逆の状況に思いを馳せずにはいられないことだろう。即ち、「もしもSさんが、村とは対照的な環境に放り込まれたらどうなるのか」という問題である。人的流動性が激しく、仕事内容も変化しやすく、Sさんの事情や特徴を把握してくれている人がほんの少ししかいない環境だったら?Sさんの住んでいるような村里というのは現代においてはそれほど多く残っているものではないし、人とモノと情報の流れは益々激しさを増している。そのような状況において知的ハンディキャップのある人が対峙するには、村よりも遥かに多くの援助を要するのではないか。または、非常に適応を阻害されやすいのではないか。ここまでは誰でも思いつくところだろう。
 
 しかし私が今回一番気になるのは、Sさんのような事例ではない*4。もっと気になるのは、果たしてそうした問題が明確な知的機能のハンディキャップを有した人だけに留まるのか、という問題のほうだ。都市空間における人・モノ・情報の流れは加速するばかりで、留まるところを知らない。現在の速さについていくにはどれぐらいの認知的スペックを要するものなのか・これ以上速くなった時にどれぐらいのパーセンタイルの人がついていけるのか という事を考えた時に、背筋が寒くなるような気がしませんか?ということである。都市空間に適応する為に求められる諸機能*5のハードルが高くなればなるほど、その機能を満たさない個人の適応は大きく阻害されるリスクを負うことになる。だとすれば、都市空間のスピードが速くなればなるほど、流動性が高くなればなるほど、諸機能の面において追随しきれない個人が増加してくるのは当然の成り行きの筈ではないのか。この容赦ない(都市空間の)加速に本当に自分はついていけるのか?独立した一個人として、自分の足で本当に立っていられるのか?少なくとも私個人は、ときにこういう不安を感じることがある。他人事で済ませられればいいのだけれど、本当にこれは他人事なのかな、と。
 

*1:この話自体はフィクションです

*2:知的機能のハンディを補うように、こうした機能が代償的に発達した可能性は、あるかもしれない。

*3:対照的に、パーソナリティの弱点・強すぎてバランスのとれない執着 などなどのファクターがある人の場合は、知的機能の面において平均以上であってもこの限りではないことはいうまでも無い

*4:勿論Sさんが都会に済めば、今のような適応は非常に達成しにくい、とは思う。しかし障害者手帳や障害者年金、その他の福祉的援助下において、つまり自分の足で立つ部分をもっと少なくした、現在とは異なる適応を達成する可能性ならば、期待できる。

*5:諸機能、と私は書いた。というのも、何もIQなどのモノサシで測定されがちな認知機能だけを指しているつもりは無いからだ。都市空間の適応に有利な能力・スペックというものは、認知機能だけとは限らないことには注意しなければならない。