シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

継続的取り組み(努力)は、達成の必要条件ではある。

 
 「継続的取り組み」があれば確実に結果が出るとか、「努力」さえすれば確実に幸せになれる、といった類の物言いが寝言であることは、今更言うまでもないだろう。高度成長期の日本ではいざ知らず、現在の日本(や世界各地域)において、一心に「継続的取り組み」に打ち込めば、誰でも十分なベネフィットに辿り着ける、などと妄信するのは全く愚かなこととしかいいようがない。そんなに美しく娑婆世界はできていない。
 
 しかし、「継続的取り組み」無しで、その場の空気や気分に振り回されているだけで何事かに到達できるのか、と言ったら、これまた明確にNoだろう。多分、幸福をかみ締められる期待値も低いんじゃないだろうか。どのような方向のachievementであれ、どのようなタイプの幸福であれ、「継続的取り組み」無しで為し得るものが世の中に存在するだろうか。ニコニコ動画の優れた作品からコンピュータ関連ベンチャーの立ち上げまで、あらゆる達成の影に、私は、達成者の努力や継続的取り組みの影を見出さずにはいられない。彼らはどれだけのエネルギーと時間と情熱を、それらの達成に差し向けたのだろうか。ちょっとやそっとではあるまい。それなりの努力や継続的取り組みを傾けているに違いない。
 
 私は、継続的取り組みは、achievementの必要条件だと思っている。ただし十分条件ではない。それらが成果、達成、という形で実を結ぶには、概ね、知恵や工夫も含めた、努力や継続的取り組みを生かすためのプラスアルファが必要だ。また、それらを大いに燃え上がらせる好奇心や、それらを効率よく導く師が求められる場合もあるかもしれない。とは言っても、逆に努力や継続的取り組み無しで何らかの達成に至った人など、極めて稀なのではないか、という部分から意識を逸らせてしまうのもまずいかろう、とも思うのだ。
 
 少し話が逸れるが、「努力」と書くと誤解を招きそうなので敢えて「継続的取り組み」という表現を今回は選ぶことにした。日本語の「努力」、という言葉を聞くと、楽しいことへの継続的取り組みは含まないんじゃないかとか、価値判断として美徳なんじゃないかとか、そういう妙なノイズが侵入しやすくてややこしい。「努力」と書くと、好きでプログラミングに何千時間も費やす人・ニコニコ動画で超絶MADを組み上げているような人は含んじゃいけないような気分になる向きもありそうだ。だから私は「継続的取り組み」とこのテキストでは書くことにした。私は、嫌々ながらの「継続的取り組み」ばかりがachievementをもたらすとは思わないし、むしろ嫌々ながらの継続的取り組みというのは、なんだかエネルギー効率が悪すぎてお勧めできないとさえ思ってしまうクチなのは断っておく。
 
 話をもとに戻そう。嫌々やるのか、嬉々としてやるのかはともかくとして、人が何かを達成しようとしたら、そこには「継続的取り組み」がどうしても要請されていることには、もっと着眼したほうがいいと思う。それを「努力」というタームで表現するかどうかはともかくとして、Flash職人として大成するんであっても、企業で頭角を現していくのであっても、職人として技芸を磨くのであっても、「継続的取り組み」無しで達成することは殆ど不可能である点は、忘れてはならない。どうもネット界隈には「努力アレルギー」とでも言うべき人達が沢山いて、そのせいで「努力」という単語が排斥されがちな気がしてならないわけだが、「努力」はともかくとして、「継続的取り組み」までもが否定的な気分に晒されることには、一抹の危機感を覚えずにはいられない
 
 繰り返すが、私は「いわゆる努力」が各種達成の必要条件だとは思わないが、「継続的取り組み」は各種達成の必要条件だとは常に思っている。また、「努力」を否定する人がいてもいいとは思うが、「継続的取り組み」を否定するのは個人にとってろくな事のない事だとも思っている。「継続的取り組み」までをも放棄するとなると、その人は、ありとあらゆる事柄において、ろくな達成も為しえないまま行ってしまうのではないだろうか。
 

「継続的取り組み」をどう生かすか

 
 ただし、「継続的取り組み」はあくまで達成の為の必要条件であって、十分条件ではない。例を挙げると、幾らモチベーションがあって好きだからと言って、意中の女の子と交際にもちこむ為に毎日スクワット300回を継続的に取り組んだとして良い結果を得られる見込みは殆ど無い。また、「素晴らしい人気ブログ」をこしらえたいと意気込んではいるけれども、ひたすら誹謗中傷と個人攻撃だけを嬉々として繰り返しているブロガーなども、継続的取り組みの果てに絶望的炎上を迎えそうだ。「継続的取り組み」を、ある種の苦行として*1それ自体自己目的化してやる人ならともかく、具体的な駆動力へと還元させていくには、どんな風に継続的取り組みをやっていくのか、についての一工夫が必要だろう。言い換えるなら、「頭使って継続的取り組みをやろうよ*2」だろうか。
 
 何らかの達成に向かいたいと思うモチベーションがあっても、「継続的取り組み」が空回りしたりお門違いだったりすれば、エネルギーが空回りするばかりで上手くいくはずが無い。この当たり前のことを無視して、めくら滅法に「継続的取り組み」に突き進む人というのは、地図もコンパスも無しに目的地を目指す旅人のようなものであり、その営為は懸命ではあっても賢明ではない。男女交際、コミュニケーション能力、プログラミング、どの方面でもそうだろうが、達成という名の到達点に至るには、それなりの道筋・バイタリティ*3・目標の見積もり・自分自身に関する適切な評価、などを備えていたほうが「継続的取り組み」が達成へと繋がる期待値は高い筈である。それが難しいんだと言う人がいるかもしれないが、事実難しい。自分の分際も、目標の難易も、“登山ルート”の選び方も、決して易しいことではない。また「継続的取り組み」の途中で方向の微修正を余儀なくされることも多いので、いったんやろうと決めたら根性出すだけ、というほど単純なものでもない。
 
 「継続的取り組み」をどうやるのか。何に対してやるのか。頭を使ってやれるのか。「継続的取り組み」は、達成の為の必要条件ではあっても、それ単体で達成を保証してはくれない*4。頭の悪い運用法に終始すれば、それこそ無駄な骨折りで終わってしまうことには十分な注意が必要だ。とはいえ、「継続的取り組み」というものは人間が何事かを達成するには殆ど常に必要とされるファクターでもあるので、否定してしまうのは極めて危険な判断とも言える。難しいところだが、出来るだけ巧い具合に「継続的取り組み」にエネルギーを費やし、願わくは、少しでも望ましい達成に近づきたいところではある。そして、「継続的取り組み」に背を向けるような袋小路とは距離を保って生きて生きたいものである。
 
[インスパイア元]:格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね - novtan別館(左記リンクの文章は、着眼としては平凡で、しかし平凡だからこそ繰り返し確認する必要のあるエッセンスを含んでいる。しかし不幸なことに、修辞上の幾つかの不注意が災いして、論旨の最も重要なエッセンス以外の部分で非難を集めてしまった。勿体無いことであり、慙愧の念にたえない。)

*1:または、自分のルサンチマンを膨らませる為に、頭を下げている自分の頭をもっと深く下げる為の方便として

*2:今一瞬、頭使って努力しろ、という単語が思いついた。日常会話ではこの表現でも十分のような気がするが、努力、という言葉をここでは敢えて回避することにする

*3:この、バイタリティをどうやって鼓舞していくのか、というのもひとつの腕の見せ所とも言える。継続的取り組みを継続させる方法とか、好奇心を上手く流用して継続させやすくするような知恵は、あっても良いことだろう

*4:勿論、このことに駄々をこねても良いことは何も無い