シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「リア充」と「酸っぱい葡萄」

 
 昨今はてな周辺でみかける、「リア充」という言葉の一時的フィーバーをみていると、この単語は、劣等感ゲームを通して不遇の自分に一服入れる為のカンフル剤としてしか役に立たないアイテムだなと感じる*1
 
 自分には無いけれども相手には保有される(または体験される)モノで、尚かつ羨ましく望ましいモノを見かけた時に「あいつはリア充」という単語を投げ掛けて、不遇コミュニティのなかで「リア充」という単語を共有するレクレーション。「リア充」発言者は、この一連のレクレーションを通して、本当は美味しそうな葡萄を、さも不味くて回避しなければならないものであるかのような勘違いに成功する*2。また同時に、コミュニティ内部への帰属を確認することによって、“不遇な俺達”というアイデンティティをも獲得するのだろう。
 
 今その瞬間の心的ホメオスタシスの維持として、「リア充」と発言する遊びは確かに有効には違いないだろうが、この営為が長期的に当人の適応に寄与する可能性は殆ど無いように思える。なぜなら、願望を防衛して願望へのアプローチを(未だ思春期にある筈の)発言者に怠らせるのみならず、駄目な自分・不遇な俺達という駄目アイデンティティを育むことによって、劣等感ゲームに依存した人格形成に傾けがちであるという点においても、当人の将来の適応の幅を狭めることになりそうだからである。
 
 だから私は、こんな言葉を日常的に発言して憂さを晴らすような手法を、他人に、とりわけ将来性豊かな思春期の人達に勧めようとは思わないし、その有益性よりも先ずリスクを警戒する。こんな、アヘンのように心身を駄目にし依存させやすくする劣等感ゲームに対して無警戒な、あまつさえ若年者に推奨するような物言いには、私は同意することが出来ない。少なくとも、まともな大人が若年者にお勧めするような行為ではないと思うが如何。まだ年端もいかない人がリア充、リア充、と一時のブームに乗って叫ぶのは分からなくもないけれども、歳が幾らか上の人が若年者に対して、「“リア充”ってお題目を唱えれば、お前さんのセカイはひっくり返るんだ。気持ち良くなるぞう。ほれ、お前さんもやってみろ」などと 親切にも教えてあげるのをみかけたとしたら、まるで初心な若年者を誑かして劣等感ゲームの酸っぱい葡萄ピラミッドに引きずり込んでいるように私は誤解することだろう。
 

*1:そういう単語として出来上がっちゃったんだな、という意味で。

*2:勿論この勘違いは、願望に対する適切な防衛機制として機能することだろう