シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

別にオタに覚悟は要りません。でも覚悟したほうが生きやすいとは思う。

 
オタクにとって「足りないのは覚悟」か? - たまごまごごはん
 
 自称オタク、つまり自分自身がオタク趣味を好んで消費する人だ、というのを認めて生きていくのは、それだけでは大きな覚悟は要らないと思う。リンク先でid:makaronisanが仰っているような、自分自身の嗜好に素直になれるかなれないかが問われるぐらいだろうか。自ら胸を張って、もじもじしないでオタク趣味を楽しむには確かにちょっとした覚悟があったほうが良さそうだ。

 
 だが、オタクを自称すること、自分自身をオタク趣味愛好家と認めること以上に覚悟が必要なのは、オタクと他称されること、つまり侮蔑用語・差別用語として用いられるところの「やーねーあの人やっぱりオタクよーヒソヒソ」という用法に晒され続けるリスクに対しての覚悟ではないだろうか。侮蔑されるリスクに対して、侮蔑に甘んじるなり、対策をたてるなりしながら娑婆世界で生きていくなり、どちらにしても侮蔑リスクに晒される自分自身を引き受けることにこそ、覚悟を要するのではないだろうか。実際に、自分がオタクではないと思いたがっている人や、オタク仲間の前で「一般人ごっこ」にのめり込まなければいられないオタクさんというのも、案外、趣味としてのオタクコンテンツに後ろめたさを感じているよりも、現在の自分がオタクと他称され得る存在であること・世間の人が他人をオタク呼ばわりする際には侮蔑の目線が含まれること、に尻込みをみせているだけに見えることもあるのだが。
 

自称オタクとは異なり、他称オタクは差別用語として用いられている。

 オタクという単語を自称する時には、必ずしも「オタクはクズである」「オタクキモい」という意味合いで使われるとは限らないけれども、オタクという単語で他称される時、オタクという言葉には侮蔑のニュアンスが必ずと言っていいほど塗りつけられている*1。とりわけ、女の子から男性オタクに対して投げ掛けられる「○○さんってオタクだよねー」という用法の場合、殆どといって良いほど、そこには侮蔑的なニュアンスが込められている。また逆に言えば、侮蔑や軽蔑の意図を女の子が持っていない場合には、たとえオタク趣味愛好家に対しても、おいそれと「○○さんってオタクだよねー」は投げ掛けられない*2。オタクの皆さんが、本当に覚悟しなければならないのは、自称オタクではなく、他人様から戴く時の、この他称オタク、に伴う呻きや苦しみだと思うのだが。
 
 原因はさておき、他称オタク、とりわけオタク趣味にあまり理解の無い人達が口にする時の「○○さんってオタクだよねー」には、かなり昔から相当量のネガティブなイメージが込められている。理解出来ない事に夢中になっている奴、コミュニケーション不全、身なりの整っていない人、などなどのbad imageが、一緒くたになってオタクという侮蔑語に込められて投げつけられる。また逆に、オタク趣味への誤解を巧みに解ける人、コミュニケーションに長けている人、見た目を整えている人の場合には、多少アニメをみているぐらいではオタクという侮蔑語は投げ掛けられない。あの、女の子やイケメン達がコソコソと影でオタク呼ばわりするような時の他称オタクは、オタク趣味の多寡や濃淡によって投げつけられるか否かが決定づけられているわけではない。単に、あなたがいけすかない奴かどうか・コミュニケーション可能なやつか否か によって決定づけられている。ただし、オタク趣味に時間とお金を全て捧げた人が、彼らとのコミュニケーションに際してどう評価されるのかは推して知るべし、である。
 

彼らに足りない覚悟は何なのか?

 覚悟の足りないオタクというのは、結局のところ、他人様から投げ掛けられる侮蔑語としてのオタクという単語に対して免疫不十分で覚悟不十分で目を逸らせたいような、そういう人間なのではないだろうか。もしも「キモオタはキモオタとして差別される。それはオタク趣味の濃淡とは関係ない」現実問題を認識しているならば、幾つかのソリューションを建てたうえで、オタク趣味に邁進することも出来ている筈だ。即ち、
 
1.自分が他人様からオタクと侮蔑される可能性が高かろうが低かろうが、俺は俺の道を行く。コミュニケーションなんぞ二の次!軽蔑したい奴は勝手に軽蔑してろ!
 とオタク仙人の道を突っ走るか、
 
2.他称オタクという侮蔑語を避けるには、それ相応のコミュニケーション可能な人間として認知されといたほうが良い。幾らかオタク趣味以外にもリソースを割り当てよう。
 と脱オタ*3にエネルギーを割り当てる
 
 などなどである。オタクはしばしば「好きなことみつけたんだ!好きなことみつけて、それだけやって、何がわるいんだよ!」という物言いをするし、それは決して間違ってはいないわけだけど、実際にオタク趣味に人生の全リソースを割り当てれば、見た目や衛生も含めたコミュニケーションリソースは失われるわけで、オタク趣味に造詣の無い人からみて「なんだか気持ち悪い人」とみなされる確率が高くなることは避けられない。その事を覚悟したうえでオタク趣味に賭ける、というのは恰好良いことだけど相当の覚悟が必要なことだと私は思う。そのようなストイックさを持ったオタクには、敬意を持たずにはいられない。だが勿論、こうした実情を理解したうえでそれでも腹をくくってオタク趣味に全力投球出来るオタクというのはそうはいない。
 
 逆に、侮蔑用語としての他称オタクに晒されることをただ避けたいだけなら、好きなことばかりに時間とお金を費やすのをやめて、余暇の何割かをコミュニケーションに関連した活動にまわせばいいのだ――つまり、所謂脱オタにエネルギーを割けば良いのだ――。勿論、これだってオタクにとっては苦渋の選択である。今現在において、オタク趣味に好きなだけ時間とお金をかけることが許されているオタクにとって、それを削って不得手なコミュニケーションや身だしなみに割り当てるというのは、嬉しいものではないだろう。まして、オタク趣味が本当に好きな人達の場合には尚更だ。だが、侮蔑用語としての他称オタクに晒されることを避けるには、オタク趣味をただ隠すだけでは意味が薄く、コミュニケーションに関する諸問題を改善するしか無い。
 
 このように、オタク趣味にエネルギーをまわしてオタクをやり続けるということは、「○○さんってオタクなんだよねーヒソヒソ」に込められている侮蔑のニュアンスと何らかの形で向き合う他ないわけである。侮蔑に耐えて生きていくか、侮蔑を避ける処世術を身につけるか。どちらにしても、コストも痛みも大きな選択だ。しかし、オタクとしてこれからも生きていくというのなら、腹をくくってどちらかに舵取りするしかないし、また逆に、どちらにも舵取りしない中途半端な立ち位置は、かえって色々と辛いことになるんじゃないかと思う。
 
 しかし、覚悟を決めきれずに右往左往するオタクのほうが多いのは、皆さんもご存じのことだろう。侮蔑される覚悟も決まらず、かと言ってコミュニケーション上の不利益を回避する為にオタク趣味を削る甲斐性も無いままに、「僕達は好きなことを好きなだけやる権利がある!お金も時間もオタク趣味だけに費やしたい!でも女の子達に差別されるいわくはない!」などという絵空事にしがみつくヌルオタ(オタク趣味がヌルい、というより覚悟不十分のヌルいオタ)が巷にはゴロゴロしている、というわけだ。
 
 そして、侮蔑を引き受けてでもストイックにオタク趣味に賭ける覚悟も、侮蔑する世間に迎合する甲斐性も無いオタクだからこそ、「自分はオタクではない一般人だ」という言い訳を自分自身に必要としていて、オタク趣味すら十分に味わえないような中途半端なスタンスに甘んじてコンテンツを楽しみきれないでいるのではないか。世間の無理解や侮蔑を引き受ける覚悟を決めたオタクや、オタク趣味を愛好していても世間に圧迫されない処世を身につけたオタクが、どうしてオタクコンテンツと向き合う時に言い訳を必要としようか(いや、必要としない)。
 

まとめ

 私は、別にオタクに覚悟が必要だとは思わない。だが、世間からの被差別用語としてのオタク(他称オタク)に対してどう一人のオタクとして対峙するのかに関して覚悟を決めていないと、色々と辛かろうし、さぞかし(自意識の)居心地が悪かろう、とは言っておきたい。オタク趣味だけに時間とお金の全てを費やし続ける人は、そりゃあオタク趣味に造詣の無い人から変人扱いされやすかろうし、服飾や衛生に手間暇をかけていなければキモがられやすかろう。そこの所を承知したうえで、敢えて世間からの被差別に耐えながらオタクとして一身を貫くのか?それとも脱オタメソッドを織り交ぜて世間に迎合するのか?私は、どちらも決して悪くない選択だと思うし、世間の目線に晒されながらオタク趣味をやるっていうのは、そういうことだと思う。しかし、どっちつかずで覚悟がつかないまま、他人と自分に対して「俺はオタクじゃない、俺はオタクじゃない」と呪詛のように言い訳をしている人は、かえって色々辛いんじゃないだろうか。オタク趣味を楽しむ上でも、世間の風に晒される上でも。
 
 オタクとして、オタク趣味を愛好する者として娑婆世界で生きていく事に対しては、何らかの把握と覚悟があったほうがいいんじゃないかと私は思う。
 
 [関連]:君がキモオタと言われるか否かは、君がコミケに通っているか否かとは関係ない - シロクマの屑籠
 [関連]:「オタク」の定義は多様化しても、「キモオタ」の定義は多様化しない - シロクマの屑籠

*1:例外的に、オタクについて論説する人達や、オタク文化に理解や共感を持っている人達だけが、この侮蔑のニュアンスを除去した状態で「ほほう、なかなかのオタクだ!」と肯定的な用法でオタクという単語を他人に投げ掛ける

*2:か、オタクという言葉に侮蔑の念が籠もっていないことをあれやこれやの方法で注釈づけながら、注意深く用いる

*3:ここでの脱オタは、オタク趣味をやめるという意味ではなく、被差別オタクではなくなる為の、コミュニケーション技能向上のメソッド、の用法です