シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

恣意的な正義をふりかざす21世紀のジャンヌダルク

 
 http://d.hatena.ne.jp/pbh/20070806/1186365168
 上記リンク先を読んで、正義、なるマジックボキャブラリーについて考えた。三分ほど。しかる後、この釣りっぽいエントリタイトルを五分ほどかけて捻り出した。
 

Web上で「拳固張るど!コノヤロー!」って拳振り上げても、それを振り下ろさないのであればギリセーフ、て感じ。
けどその正義を相手に振り下ろしたらアウト。でもその境界は結構曖昧だったりする。寸止めは難しいよね。

 どこまでをアウト/セーフとするか、のマージンは、内容だけに拠らず、誰に言うか、誰が言うか等によって大きくぶれるんだろうな、と思う。「ケースバイケース」というマジックボキャブラリーも、正義だのセーフだのといった物差しが、恣意的なものでしかないことを暴露する為にこそ有効なアイテムでしかない思うけど、それはさておき、「己の正義を振りかざして良いセーフの基準を左右する要素」について一応考えてみよう。
 
・何を言うか
 言う内容がアウト/セーフの判断に大きな影響を与えるのは当然というか。独善的・原理主義的だと目される内容であれば、正論でさえ嫌な顔をされるのは避けられない。あと、主張の根幹とは違う、修辞レベルの凸凹も、「ケースバイケース」の帰趨に微調整を与えるのは避けられない*1
 

・誰に言うか
 相手が実年齢的にも内容的にも小学生ブロガーだという事が幅広く認知されている相手に対して、「そんな事してると怖いクマさんがやってきて食べちゃうぞ〜!」を本気でやると色々と非難されそう。対して、アルファなブロガーに喧嘩売ったり、自由な罵倒を許容してくれるキャラクターを引き受けているブロガーに難癖をつけたりする分には、セーフそう。
 
・誰が言うか
 大学生ブロガーが言う分には若気の至りとして許容される事も、四十ぐらいの歳の人が書くと「超絶痛い」という事になることは、しばしばあると思われる。また、ゴシップ雑誌の記者が言う分には「挑発的な記事」であっても、内閣官房長官がポロリとこぼしたら蜂の巣を突いたような騒ぎになることも色々。
 
・何処で言うか&何時言うか
 特定のファンコミュニティが大いに盛り上がっている時に水を差すような事をやれば、多分えらい目に遭うことは避けられない。正義もへったくれもなく、叩き出されてしまうだろう。
 
 
 
 飽きたのでこのへんで。
 
 「正義」というものの絶対性を、己のなかにも、所属する価値観やコミュニティにも求めきれないのが、21世紀の「正義」なのは間違いないとは思う。仮に、今この場で流通する正義というものがあるとするなら、それは「その場において局所的に流通・支持される正義」であって、相対的で、かりそめで、その場を構成する人達の多数決的コンセンサスによって立ちのぼってきた一現象に過ぎない、と捉えるべきなのだろう。そういう留保を持ったうえであれば、まぁ、正義の物差しで相手の額をビタンビタンと叩く流儀も、あるのかもしれない。
 
 今日における「正義」の局所性・相対性・現象性*2を弁えてなお、正義の拳、なるものを握りしめてジャンヌダルクを気取ってみる人というのは、色々な意味で困った人だな、と思う。正義という旗印は、もはや旗印というよりも、selfishな決断*3を後押しする為の単なる自己正当化以上の意義を今日的には持ち得ないと分かっていながら、それでも身の潔白を口にしながら“正義に耽る”人達をみたら、まずは警戒するのが一番なんだろうな、と思う。分かっていてやっている奴らはしばしば腹黒いし、自分は21世紀のジャンヌダルクだと本気で思いこんでいる奴らは、色々な意味で始末に負えない。
 

*1:だから、修辞学ってあんまり馬鹿にしないほうがいいと思う、blog大戦略的には

*2:その場限り的な、という意味

*3:自分の、または自分達のselfishな決断