シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

自己実現礼賛に潜む罠(老いと自己実現について)

 

自己実現、という言葉をうんざりするほどみかけます。

 自己実現、という言葉を聞く機会は沢山あるし、自分自身も頻繁に口にしていると感じる。「僕が僕であるための何か」、「自分のレゾンデートルを確認するための契機」といったものが欠けていると、人は生きるのが辛く感じられるようになってくる、らしい。自分を取り囲む環境のなかで、自分は何の役にも立たない・自分は誰の為にもならない・自分を確固たるものにする根拠の無い、といった事態に遭遇すると、いたたまれない感じに襲われることになりやすい。
 
 そのせいか、今では、自己実現なるものは健康な心理的状態に必須の、かき集めなければならないものとして捉えている人が少なくない。資本家や企業の側もよく心得たもので、「自己実現」を撒き餌にしてあの手この手の“キャンペーン”を展開していて、その手の“キャンペーン”は概ね成功裏に進んでいる、ようにみえる。
 
 しかし、自己実現という代物に対する妄信・執着の末に待っているのが何なのかを考えると、私は怖くなってくることがある。何が怖いかというと、自己実現というやつは、かき集め方次第では「老齢」と相性が悪いんじゃないか、という点である。
 

若いうちはいいんですよ、自己実現を求めたって。

 確かに、十代や二十代のうちは自己実現を駆動力としてやりたいようにやればいいし、また幾らでもやれることだろう。パートナーを獲得したり、将来の食い扶持を確保する手段を身につけたり、望ましい人脈を形成しはじめたりするうえで、自己実現というニンジンは馬力を引き出すのに好適だ。
 
 だけど、三十代、四十代という壮年期を迎えたときに、自己実現にガツガツしている人は一体どうなるんだろうか。子育てを始めたというのに、未だに自己実現を欲張っている父親/母親は、自らの子どもさえ自己実現の手段として酷使するのではないだろうか(ああ、わかってますとも。そんな光景、日本中どこにでも転がってますけどよね!)。同様に、五十代、六十代と進んでもなお自己実現を頬張らずにいられない人というのも恐ろしい…自己実現の餓鬼道から抜け出せない五十代・六十代は、若者の瑞々しい才能を目の当たりにしても、それを育む為の苗床を準備するどころか、芽を摘んで“自分の自己実現の延長”に執心するのではないだろうか。さらにさらに、七十代、八十代を迎えても自己実現に縛り付けられていたら気が狂ってしまいそうだ!自己実現に執着したまま老年期を向かえた人は、自分を承認してくれた人達の死・老衰による能力の低下・リタイアメント、といった諸々に直面して自己実現の拠り所を木っ端微塵に粉砕されて為す術が無いだろう。とても耐えられるものではない。
 
 このように、自己実現に関する考え方は、若い人にはさして問題なく適用できるものではあっても、壮年期〜老年期の人に適用するにあたっては注意深くなければならないもののようにみえる。人間、老いてもなお自己実現を(幾らかは)必要とするというのは確かだけど、老いてもなお若年者と同じくらいに自己実現を追い求めるような状況というものがいかに恐ろしい地獄であるかを思うとき、自己実現、という言葉の氾濫にある種の危機感を感じずにはいられない。ガツガツしたままで歳をとったら、どうなっちゃうんだろうか。
 
 勿論、老いてくれば自己実現に対する執着が衰えてくるじゃないか、と考えることは出来るし、それが理想的に違いない。実際、うまく自己実現が枯れた好々爺に遭遇することは今でも十分に可能だ。だけど、本当に年寄りみんなが自己実現に対する執着を減じさせているのかと言ったら、さてどうだろうか。壮年期になっても子どもを使って自己実現するママやパパがいる。本皮製の椅子にしがみ付きながら定年退職の日に怯えて過ごすおじさんがいる。案外、歳をとっても“自己実現離れ”出来てない人というのは現代娑婆世界には沢山いるんじゃないだろうか。歳をとればとるほど自己実現を(自分を取り囲む環境から)取り込むことは困難になるっていうのに、年甲斐もなく自己実現にしがみ付く人達を、あなたは笑えるだろうか。私は笑えない。うかうかしていると、自分もそんな壮年・中年・老年になってしまいそうだという戦慄を禁じえない。
 

歳をとって枯れていけるのかどうか問題

 「自己実現」と一般に称される代物は、若年者を駆動して何者かへと成長させる可能性を秘めた大切なものだと思うし、若年者がそれを駆動力にすることにはさして異論は無い。だけど、思春期→壮年期→老年期へと人生のフェーズが進んでいくにつれて、自己実現を(自分を取り囲む環境から)摂取することは段々難しくなっていくこと*1を踏まえた時、その自己実現“感”とでもいうべきものに依存している人は、段々首が絞まってくるんじゃないかとは私は危惧してしまう。子どもを自己実現のツールに使っているママは子離れの危機にうろたえるんじゃないだろうか。部長の椅子にしがみついて自己実現しちゃっている59歳男性は定年を迎えたら一気に老け込んでしまうんじゃないだろうか。
 
 にも関わらず、イノセントな自己実現礼賛の空気のなか、少なからぬ壮年・中年老年までもが、自己実現とその達成手段を求めて右往左往しているようにみえる。例えば、「美しくみせましょう」「いつまでも力強く」「皆に承認されましょう」といった類のプロパガンダの虜になっているのは、なにも思春期の若者だけではあるまい。自己実現が枯渇したら自分は終わりだとばかりに、歳をとっても自分の居場所探し・役目探し・「いきいき」に汲々とする人達はどうなっているんだろうか“老いてますます盛ん”とは狂気の沙汰だとはラ・ロシュフコー伯爵の言だが、確かにそんな風にもみえることさえある。歳をとれば役目がなくなってくるのも、居場所を譲る時が来るのも、自明の理のように思えるんだけど、いつまでもどこまでも自己実現の機会にしがみつかざるを得ない我利我利亡者が増えているんじゃないだろうか。それも、若年者の間だけでなく、もっと上の世代にまで。
 
 だけど若年者とは違って、歳をとっても尚自己実現にしがみつくのは、とても大変な処世の筈だ。そういう人にとって、老いは確かに地獄に等しいものかもしれないし、だからこそ、コスメティックやら何やらで老齢から逃避しようと必死になるのかもしれない。だが、幾ら逃げたって老齢から逃れることはできないし、とどのつまり、自己実現メソッドで心的ホメオスタシスを保つ方法論には加齢的限界がある。最終的には程度問題にせよ、歳相応に、自己実現に枯れていかなければかえって辛い人生が待っているのではないだろうか。
 

歳相応に自己実現と折り合いをつけて枯れていきたい

 以上、自己実現というキーワードと老いについて書いてみた。自己実現は、若者を衝き動かす力としてとても大切なものだし、人間である以上、死ぬまで自己実現を与えてくれる人や自己実現の機会というものを必要とさえすることは私も認める。しかし、歳をとればとるほど、自己実現と呼ばれる代物は(自分を取り囲む環境から)獲得することが困難になってくるし、むしろ老齢とともに喪失していくことの多いものだということを忘れるわけにはいかない。「猫も杓子も自己実現」な昨今の風潮ではあるけれど、老いるに従って歳相応に自己実現を“軟着陸”させること・少ない自己実現で十分な境地に達すること、についても思いを馳せておいたほうがいいんじゃないか、と私は考える。また同時に、歳相応に自己実現と折り合いをつけて枯れていけたらいいな、と祈念する。
 
 あなたや私は老いていく。嫌でも老いるしかない。その時に、あなたや私は歳相応に枯れているだろうか。それとも自己実現の亡者と化して、なおも「いきいき」にしがみ付くのだろうか。自己実現を何も考えずに礼賛するうちに、自己実現の餓鬼道とも言うべき迷路に入り込むような愚は、出来れば避けたいのだが
 

*1:また、ガツガツしないことが年長者の美徳とされていくこと