シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

世間への適応と、クリエイター気取りのハイブリッドはどうでしょうか

 
http://d.hatena.ne.jp/i04/20070708/p1
 
 上記リンク先において、脱オタに関するid:i04さんの見解を伺う機会を得ましたが、かなり同感です。i04さんのテキスト中で言われている脱オタもまた、「劣等感や自己不全感に苛まれながら、世間に圧迫されているような感覚から脱却する」ことであり、「オタク趣味を捨てること」とはイコールではありません。文中に触れられている「1.世俗への適応」であれ、「2.クリエイターとして名をあげる」であれ、自己侮蔑の病気や現実世界の生きづらさを何とかしようという試みとして捉えました。
 
 i04さんの仰る通り、そして周知の通り、自己侮蔑の病気を抱えたオタクが「1.世俗への適応(所謂脱オタ)」を選ぶことは本当に少なく、「2.クリエイターとして名をあげる」を幻想することが多いですよね。既にi04さんがある程度まとめてくれていますが、世俗に適応するためのハードルの高さや辛さ/クリエイターとして名をあげようと思うことのハードルの低さと気安さには対照的なものがあるようにみえます。表にしてみると、以下のようなものになるでしょうか。
 

  世俗への適応 クリエイターとして名をあげる
門をくぐる難度 重い腰があがらない 思いついたその日からクリエイター!
達成難度 高い 思い込むだけなら意外と簡単
葛藤解消効果 成果が出るまで軽減されない 成果を出す前から軽減される
非オタクとのコミュニケーション 促進される 促進されない
異性への劣等感 巧くいけば解消される 実はなかなか解消されない
一人で出来るか 人の間でやるしかない 見かけ上、一人で出来るようにみえる
葛藤への直面化 否応無く直面化 むしろ葛藤から遠ざかる

 
 比較すると、オタククリエイター志向のほうが短期的には効果的にみえます。「拙者は今日からクリエイターでござる」と発心した瞬間から、あなたはオタククリエイター気取りになれるという簡便さぶりです。自分自身の心的ホメオスタシスを葛藤から守るという視点に限って言えば、こんなに効率的な方法はありません。短期的には。別に、優れたコンテンツを創る必要はありません。自分がクリエイターだと思い込めるなら、同人やらブログやらmixiやらを極々ショボいレベルでやっているぐらいでも、当人の心の疼きには湿布があてられます。外部環境から結果を出すよう急き立てられることも無いので、厳しい淘汰を潜り抜けてクリエイターになるべく精進しなければならない度合いも少ないです。まして、「プチクリ」などという言説が流れたり、「身近なレベルで神扱いしてもらえる」媒体がネット上にあるとなれば尚更でしょう。昨今のインターネット世界で自己実現の果実をもぎ取るのは、さして困難なことではありません。
 
 一方、世俗への適応、つまりコミュニケーションのなかで自分自身の劣等感や自己侮蔑と対峙する道はというと、短期的には全く救いが無いようにみえます。クリエイター気取りやネット自己実現とは異なり、発心したその日から自己侮蔑にまつわる葛藤が軽くなるというわけにはいきません。それどころか、コミュニケーションにトライして一定以上の成果を挙げる段階までは殆ど葛藤が改善しないのです*1。しかも(ネット自己実現などと異なり)一人だけで達成できる見込みは全くありません。己の劣等感を惹起するであろう、非オタクの人達や異性と関わっていかなければならず、勿論その間、自分自身は劣等感や自己侮蔑感を強く自覚させられます。絶対に成功するという保証もありません。
 
 だとすれば、藁をもすがる気持ちで短期的な葛藤解消に飢えている人達が、オタククリエイターなどに殺到するのも頷ける話です。「自分がいっぱしのクリエイターにでもなった気分」はとりあえず獲得できるので、追い詰められた気持ちも何とか一息いれられますし、自分自身は殆どコストを支払わないで済みますから。もし、今の年齢・今の立場・今の心境が永遠に続くと仮定するなら、そのまんまでも困らずやっていけそうな気がします。最近のインターネット環境においては、自分がいっぱしの何者かである気分を味わえるツールは過剰なぐらい充実しており、その過剰さこそが日本のインターネッター達がいかに自己不全と自己侮蔑の病に苛まれているかを直感させるわけですが、今現在の・当座の心的葛藤を解消・軽減させるという点では、クリエイター気取りというのは有効な選択肢と言えるでしょう。才能も努力も要りません。
 
 勿論私は、こうした短期適応だけで大丈夫なんですか?と常々疑問に思っていますし、思っているからこそ私は世俗への適応に過半数のエネルギー・コストを投下してきました。“クリエイター気取り”という選択肢は、それ単体では原則として長期適応には何の寄与もしてくれませんし、とりわけ「心的葛藤を何とかする為にクリエイター気取りに逃げ込んだだけ」な人達においては、それで身を立てられるなんて事は少ないでしょう。クリエイター気取りという選択肢は、確かに短期的には葛藤を解消してくれますが、所詮は防衛機制レベルの極短期的な効果であり、自分自身の対人コミュニケーションの苦手意識や自分自身の劣等感といった問題はそのまま放置される選択肢だということを私は警戒します。クリエイター気取りという選択肢だけの人は、自己侮蔑の病気・コミュニケーションに際しての劣等感・異性にまつわる葛藤といったものを克服・軽減させる機会・資源・機縁といったものから益々遠ざかるばかりでしかありません。年余にわたるそうした防衛の繰り返しは、歳をとるほど一層対人コミュニケーションにおける劣等感を(当人が意識せずとも)膨らませるでしょうし、自己侮蔑の病理は深まるばかりでしょう。そして劣等感や自己侮蔑の病理が強まれば強まるほど、防衛機制はさらに強固で手放せないものとなってしまい、ますます「クリエイター気取り」という隠れ蓑を手放せなくなっていくことが懸念されます。「永遠の鳥坂先輩」という名の袋小路のできあがりです。
 
 ここで、インターネット世界における自己実現ツールの拡大と、それらの低コスト化を理由に「永遠の鳥坂先輩上等」と反論する人達がいることを私は想定せずにはいられません。ですが私は、永遠に鳥坂先輩を続けることは、少なくとも、容易なことではないと考えています。
 
 まず、幾らインターネットによる自己実現が低コストとは言っても、それは何某かのコストを含んでいるし、肉体維持コストは殆ど減らせません。極論を言うなら、ニートやりながらクリエイターごっこだけを続けている人などは、金銭や食料といった次元で将来の破滅をまず免れないでしょう。自分達の肉体を滅して電子の海に溶け込ませることが出来れば話は別でしょうけれど。ネットツールやらなにやらを用いてどれほど適切に自己侮蔑の病をシールドしようとも、肉体維持コストは支払わざるを得ないし、そうである限り、私達は世間ときれるわけにいきません。人それぞれの程度差はあれど、肉体がそこにあって維持コストを要する限り、人は世間から逃避し尽くすことが出来ません*2。クリエイター気取りという防衛だけを、四十代五十代になってさえ続けていられるほどのリソースを持っている人なんて滅多にいないわけです。何かの形で世間と付き合わなければならない。
 
 もう一つ、私としてはこちらのほうが気になるんですが、“クリエイター気取り”なり“ネット自己実現”なりといった処世術が現在有効だとしても、それが四十代や五十代の自分に有効だという保証はどこにあるんですか、という点です。「現実逃避し続ければいいじゃないか」と言い出す人はネット上に幾らでもいますが、彼らが二十年先・三十年先の自分の心変わりを計算に入れて議論しているのを見たことって、あんまり無いんですよね*3。短期適応だけをみれば、プチクリもよろしかろう、でも現在のやり方をずっと繰り返して四十代〜五十代の自分自身に折り合いをつけされる事は本当に可能なんでしょうか?という疑問にも正面きって答えて欲しいものです(私の場合は「とても無理」と早々に結論づけて、だからこそ思春期の大半を投資してでも世俗への適応を優先させましたが…)。人間、歳をとっていけば考え方も渇望内容も変わるだろうし、よしんば一つの考え方を固持しようとしても、世間の風当たりとか肉体年齢といったものは容赦なく変化するでしょう。そういった諸々を踏まえてもなお、“オタク界隈やらサブカル界隈やらで水遊びだけしていればok”という説得力を誰かに提示していただけるなら、私も安心できるというものです。*4
 
 よって私見では、自己侮蔑の病なり劣等感の病なりを持っている人であっても、(少なくとも凡人は)クリエイター気取りだけにチップを賭けすぎると長期適応という視点からみて劣勢に立たされる一方と結論づけます。とりわけ、自己実現の手段がクリエイター気取り一本というモノカルチャーな処世になってしまっている人は、年を追うごとに防衛構造を強化していくしか道がなくなった挙句、中年期以降に手厳しいしっぺ返しを食らうのではないでしょうか。臆病な私のような人種は、そういった破滅を回避する期待値を高めるべく、世間に適応することに躍起になった*5わけですし、世間への適応を蔑ろにする人達に「それだけじゃヤバいんじゃないの?」といいたくもなるわけです。娑婆苦というものは、現在の心的ホメオスタシスさえ何とかすればno problemというものではなく、加齢や立場の変化とともに移り変わっていくものの筈です。そこの所を踏まえずに「今と同じ手が二十年後、三十年後も通じる」と信じ込むには、少々私は気が小さいのです。
 

世間への適応と、クリエイター気取りのハイブリッドはどうでしょうか

 そんなわけで最近の私は、[世間への適応とクリエイター気取りのハイブリッド]や、[世間への適応とネット自己実現のハイブリッド]などがいい感じではないか、と考えはじめています。長期的にはリスクが高くなりそうな“クリエイター気取り”や“ネット自己実現”であっても、危地に陥った自己侮蔑の病に対するカンフル剤としては役に立つわけですし。カンフル剤を漫然と使い続けているだけはろくなことになりませんが、使わなければ持ち直せない場面で補助的に用いるのは悪いことではないはずです。具体例を挙げるなら、シューティングゲームで満足のいく結果を出す・コミケで同人作品を売って好評を博する・ネット上でクネクネと繋がるとかいった営為は、それ単体では「クリエイター気取り」で終わってしまうかもしれないにせよ、世間への適応(脱オタ)をバックアップする拠り所はぐらいは提供してくれるのではないでしょうか、と思うわけです。また逆に、そういった拠り所も無いままに世間への適応(脱オタ)に突っ走ってもなかなか耐え切れないのではないか、とも思うわけです。
 
 70年代生〜80年代生を中心として、オタク界隈には自己侮蔑の病や劣等感を防衛しなければやってられない人が沢山存在しているのは間違いないと私は考えています。これまで私は、“クリエイター気取り”やら“ネット自己実現”が長期的な適応を阻害する可能性ばかりに目を向けてきましたし、総論としてはその視点は正しかったと確信してはいます。一方で、世間への適応(脱オタ)を推進する拠り所としてのそれらや、自意識クライシスに際してのカンフル剤としての用法についても検討してみる余地がありそうだと考えています。「永遠の鳥坂先輩」への逃避を目指すのではなく、世間への適応をバックアップするための一時的措置or部分的措置としてなら“クリエイター気取り”なり“ネット自己実現”は中期〜長期の適応にも寄与する余地があるでしょう。ただし、怠惰に流されて全てが駄目になってしまうという、お決まりのリスクを管理できなければならないというのは言うまでもありません。
 

*1:例えば私の場合、二年ぐらいは全然駄目だったような気がします。三年目ぐらいからちょっとづつ、「あ、俺、変化してきたかも」と思えましたが

*2:また、インターネット世界そのものが娑婆世界であり、そこで何某かの自己実現感を獲得し続けようと思う人は、実はネット上であっても人間関係にまつわるスキルなり作法なりコストなりを支払わなければならなかったりしますが、ここでは多く触れません

*3:だからこそ私は、非モテクリルタイにおいて「非モテ議論の射程距離」について指摘してみました

*4:念のため補足。「行き詰ったらすぐ死ぬつもりです」とサラリと言う人が沢山いるようです。俺は死ねると表明することは、俺はクリエイターになると表明することと同じくらい簡単です。しかし実際に死ぬということは実際にクリエイターになるほどではないにしても容易ではなく、生への我執の大きさたるや驚くべきものであることは付け加えておきましょう。生にしがみつく気持ちが、危地に至れば至るほどぞっとするほど高まるということは、平時においてなかなか想像しにくいものなのかもしれません

*5:長期的な適応を意図するが故に、私の適応ストラテジーは、短期適応だけでなく中年期以降において自分が葛藤に苛まれる確率を出来るだけ引き下げることを指向するべく意図しています。自分が中年や老年になってどんな心境になるのかを予測するヒントは、世間知や、年上の人達とのコミュニケーションになかに含まれている、と想定して上の世代の人達の意見や振る舞いを観察しています。