シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

特定の話題集団限定のコミュニケーションは、「見捨てられ不安」のダメージコントロールが容易な筈だが…

 
相手は誰でもいい多対多のコミュニケーション : ARTIFACT ―人工事実―
 
 多対多のコミュニケーションについてid:kanoseさんが書いていることは、ネット上のコミュニティや、オタクの集まりなどにおいて広く認められることだと思う。例えば特定のアニメやゲームに関するオフ会・コミュニティといったものにおいては、「誰と話すか」よりもむしろ「どの話題の集団で話すか」が個々人にとって重要だ。コンテンツや話題を取り囲むように集まったコミュニケーション*1においては、個々人はどこまで他者と会話しているのだろうか。特定の話題集団限定のコミュニケーションにおいては、他者は自分との相違を浮き彫りにする存在というよりも、自分自身がコンテンツに関して膨らませている願望を反響する装置としてまず機能しているのかもしれない。だとすれば、そのような反響装置は誰であっても良い筈だし、「そのようなコミュニケーションがどこまで他者と向き合う契機となり得るのか」に疑問が呈されることも自然なことだと思う。
 
 さて、相手は誰でもいい多対多のコミュニケーション - www.textfile.orgには、「代替可能、交換可能な人間関係を恐く思う人というのは確かにいそうだ。」と書かれているし、それは私も感じる恐さではある。コンテンツ話題集団の他者を、あくまで自分の願望を反響させる為の反響板としてまず要請するコミュニケーションというのは、現代的かもしれないにせよ“本当に他者と遭遇しているのか甚だ怪しい”。ただ、

代替可能、交換可能な人間関係を恐く思う人というのは確かにいそうだ。端的に言えば「自分は見捨てられるのではないか」という不安だ。相手にとって自分が交換可能な存在だとしたら、それは恐いだろう。それはかなり根源的な不安だ。でもその一方で、自分は他の人を交換可能な存在として切り捨てたりすることもあるのだろう。

 という意見には、ちょうど正反対の想像も私は抱くことが出来る。コミュニケーションが代替可能・交換可能な場というのは、とりわけネット上・オタク界隈においては、特定の話題や特定の興味に限定された場であることが多い。そうした場において表出される人格は限定的なものだし、そうした場において交換される情報も限定的なものでしかない。だから、その手の代替可能・交換可能なコミュニケーションの場においては、仮に否定的な評価を他人に下されたとしてもそれは常に部分否定でしかなく、全否定に繋がることが無い。ムラ社会や中学校学級のような代替・交換が困難なコミュニケーションシーンとは異なり、私達は、その気にさえなるならコミュニケーションにある程度失敗することが出来るし、それで被る傷は必ずしも致命傷ではない。「自分は見捨てられる」のはその場がとりもつ興味・話題に限定した話のことで、他の興味・話題のチャンネルでもコミュニケーションを同時展開しているであろう現代人にとっては、「多層のなかの一層の瓦解」に過ぎない。まして一期一会の傾向の強いコミュニケーションであれば尚更だろう。ムラ社会や高校のクラスで村八分に遭ったりするよりは、余程「自分は見捨てられるシビアさ」は軽いと言える。
 
 「相手は誰でもいい多対多のコミュニケーション」を正統なコミュニケーションと呼び得るかはともかくとして、その手のコミュニケーションは「見捨てられるシビアさ」は従来のコミュニケーションシーンほど決定的なものではない。現代人のコミュニケーションは、(かつてのムラ社会などと違って)単一チャンネルの全人的交流というよりは多層チャンネルにおける部分的交流であり、個人というのはそういったコミュニケーションのコラージュ・データベースと見なすことも可能だったりするので、多層チャンネルのなかの一チャンネルで駄目出しされてもダメージコントロールしやすい。代替可能・交換可能なコミュニケーションのなかで、一層を魚雷でブチ抜かれたぐらいでは今時の人間は沈まない、筈なのだ。
 
 だが理屈ではこう分かっていても、多層のなかの一層なコミュニケーションのなかで「見捨てられ不安」に苛まれる人は少なくないようだ。何故か。可能性があるとすれば、
 
1.多層の殆ど全てにおいて駄目出しをされ続けていて、退却すべき自己承認の場・経験を保有していないから
2.自己承認を必要とする要請が強すぎて*2、僅かな否定的ニュアンスも許容出来ないから
3.交換不可能だと思う対象や全人的コミュニケーションに常に憧れていて、一層だけのコミュニケーションにもそれらを期待しすぎてしまうから

 
 などが思いつくが、個々人の心的傾向や背負ってきた歴史によってケースバイケースだろう。個人が保有するコミュニケーションが充分に多層化し、幾らでも多対多のコミュニケーションを選択出来る現状は、「見捨てられ不安」のダメージコントロールがやりやすく、トライアンドエラーも容易な機会を与えてくれているのではないだろうか。にも関わらず、そういった場の「見捨てられ不安」に取り憑かれて身動きがとれない人が沢山いるとしたら(いや、実際いるんだけど)、私などはついつい興味を抱いてしまうのである。
 

*1:オタク趣味に関するオタク同士の会話などは、まさにこれである

*2:人は、それを自己愛と呼ぶかもしれない