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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

現代都市空間というコンクリートジャングルで、デジタル原始人化する私達(要約)

本家アブストラクト

 
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 現代都市空間、情報技術の発達、そして文化の細分化。1990年代後半以降、いよいよ日本型ポストモダンと言うべき状況が成立しつつあるわけだが、こうした“進歩と爛熟”の帰結として21世紀のコミュニケーションシーンがどうなっていくのかを未来予想してみたのが上記テキストである。
 
 文化的に細切れ化されて共通理解・共通基盤を担うべきコミュニティを失った現代都市空間においては、個人はセグメント単位のデジタルな人間関係のコラージュを形成する。そして職能・趣味・興味などといった各セグメントごとに(いつでも取替可能な)限定的な関係を構築する。人間関係が交換可能で部分限定のコミュニケーションであるが故に、私達はコミュニケーションの初期段階のスクリーニングで“期待値の低そうな対象を切り捨てる”ことが出来る。この故に、コミュニケーション初期段階のスクリーニングを突破出来るコミュニケーションスキル/スペックが個人にますます要請されることになり、過剰適応を覚悟してでもコミュニケーションにエネルギーを割くか、コミュニケーションから退却することが益々苛烈に求められると推測される。文化的細分化が進んで文化ニッチ間で共通理解や共通基盤が乏しくなった状況下において、プリミティブなノンバーバルコミュニケーション能力が相対的に大きな割合を担うことになるのは言うまでもない。
 
 だが、幾らコミュニケーションスキル/スペックを確保し多文化間の行き来が可能になろうとも、全ての文化ニッチを知る事は出来ず、一個人が視界に納めることの出来る視界は極めて限定されている。残された大半の異文化は、暗闇のまま残されることになる。また、デジタルな人間関係は、ホモ・サピエンスの長い歴史のなかでこれまで経験したことの無いものであり、従来の人間関係のなかで備給されてきた自己承認要求などを従来の形で提供出来るものなのか、疑問が残る。
 
 これらの帰結として、ポストモダンというコンクリートジャングルにおいて、私達はいがみ合い、苦しみ、出口を求めて様々な現象を巻き起こすと私は考える。リンク先テキストでは、可能性として、
 
1.反動としての、狭いコミュニティへの回帰運動
2.ポストモダンの暗闇で悪意を投げ掛け合う人達
3.all or nothingの対人関係・対人評価
4.心的傾向の変化
5.自己承認の断片を求めての彷徨

 を挙げた。

 コミュニケーションに寄与するテクノロジーは発達したものの、文化細分化とコミュニティ崩壊に伴って、私達は共通理解も共通基盤もないまま個々に分断されてしまった。共有される言葉はもう少なく、原始人さながらにプリミティブなコミュニケーションスキルに頼らざるを得ない。また、文化の爛熟と細分化は、目に届かない広範囲の暗闇を生み出し、もちろん人々は暗闇に不信感と悪意を投げかけあってしまう。デジタルな人間関係もまた、all or nothingで他者の良い所だけで繋がる極端な人間関係と、終わりの無い自己実現の彷徨を生み出すばかりで、ある種の人間疎外と、その帰結としてのパーソナリティ偏倚を避けられない。

 光ファイバーで連結された都市空間がもたらすのは、進歩的な生活や“客観性”ではなく、むしろ狩猟採集社会に逆行したような日々ではないかと私は考える。テクノロジーの進歩と文化的爛熟、それらに伴うデジタルな人間関係と文化的分断に、平均的なホモ・サピエンスの能力的・行動遺伝学的諸特徴は追随出来ないのではないだろうか。せいぜいごく一部の能力的突出者だけがそれらの恩恵を正しく享受するにせよ、私達の大半は置いてけぼりをくらってまごつくばかりなのではないだろうか。
 
 ※興味のある方は、リンク先の本家テキストをご覧下さい。