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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

感情をこき使って摩耗する現代人(感情炭坑労働・情報公害、とでも喩えたくなるような)

コミュニケーション

 
 世界史の資料集を眺めていると、イギリスで第二次産業がいよいよ発展しはじめた頃の挿絵として「炭坑で働く子ども」の絵が出てくる。四つんばいになって、真っ黒になった子どもが石炭トロッコを牽いている絵だ。過剰な肉体労働と過小な栄養補給や休息、そして劣悪な環境の故に、彼らは早くにして命を落としたという。あと、日本の紡績工場の女工さんの話とか。『ああ野麦峠』などが有名だ。現代の私達は「これはひどい」と思いながら第二次産業で酷使・搾取される人達を眺めやる。
 

 翻って第三次産業がいよいよ発展してきている現代。
 
 ここまで書けば勘の良い人は気付くだろうが、かつて第二次産業において起こっていたことに類似した現象が、より広くより深く第三次産業において起こってきているんじゃないか、と私は思ってしまうわけだ。そしてこの場合、酷使されて壊れるのは肉体ではなく、(情動・メンタル・情報処理なども含めた)中枢神経のほうだ。
 
 肉体をこき使えば筋肉や消化器などに機能障害を呈することがあるのと同様*1、中枢神経を酷使してもやっぱり機能障害を呈する可能性がある点に、私達は案外鈍感のようだ。眠れなくなっても放置したり、ご飯が喉を通らなくなっても頑張ったり、緊張を解きほぐすことが出来なくなっても医者に行かなかったりする人は後を絶たず、かなり“こじらせて”メンタルクリニックを受診する人が少なくない。いや少なくないというよりもむしろ多い。
 
 既に、http://www.asahi.com/job/special/TKY200706050068.htmlなぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか - 第三の波平ブログにおいて、現代社会が情動をこき使う社会であり、それにどう対峙していくのかのソリューションについても書かれているわけだけど、この文章でも私なりに幾つかの視点を呈示してみようと思う。現代社会は、感情労働や脳負荷を無茶苦茶強いるにも関わらず、負荷のかけすぎに相当鈍感すぎる。
 

現代社会がこれほど感情・情動・脳機能をこき使う要因

 
1.共同体や共通基盤の破壊によるコミュニケーションコスト上昇
 まず、文化圏や職業圏ごとに徹底的に細切れ化した現代社会において、他人との間の共通理解・共通基盤がいよいよ失われていることが感情・情動面において多大なストレスを強いていることは挙げておかなければならない。上記リンク先のid:pikarrrさんの表現を借りるなら、「社会のアーキテクチャ化」という一言になるのだろうか。商売なり何なりで他者とコミュニケートするにあたって、私達はどんな価値観の持ち主なのか想像不能ななかでコミュニケートしなければならない。もちろんこの細切れを象徴/下支えするのが都市郊外の高層マンションだったり、地方の国道沿いの風景だったり、マクドナルドだったりするわけだろう。
 
 人は、自分のモラルと相手のモラルが大きく食い違った時や、自分の常識と相手の常識が大きく食い違った時、少なからぬストレスを感じ取るし、それ自体は疲れるけどおかしなことではない。しかし、そういった事態が完全に常態化したなかで第三次産業労働者は働く羽目に陥っている。これほど高いパーセンタイルの人が、未知で異なる価値観と日々遭遇する人生を過ごしている時代というのは、有史はじまって以来のことではないだろうか。「八百屋に毎日来るのはご近所さんが大半」とか、「紹介のあるお得意様の相手してればok」なんて商売は、かつては沢山あったかもしれないが、現代社会でソレが通じる商売はあまり無い。もちろん昔から情動をこき使う商売というのはあったわけだけど、現代都市空間におけるソレほどにはパーセンタイルが高かったわけでもなければ、コミュニケートする者同士の「共通理解への期待と現実のギャップ」が大きかったわけでもないことには注目を要する。馴染みの客とか馴染みの店員というものの可能性が相当低くなっている。この累積は、極単純に神経をすり減らすだろう。
 
 なお、現代日本の場合、宗教的な共通基盤・共通理解もあんまり期待できなさそうである。良くも悪くも、宗教上の共通点や相違点は他者とのコミュニケーションにあたって「この人との共通点」「この人との相違点」といった諸々を提供してくれるけれど、そういうのは日本においては希薄だ。「この人は浄土真宗だから」とか「この人は神道スキーだから」なんてことが共通理解・共通基盤として成立する余地は、現代日本には殆ど無い*2
 
2.情動シンクロ効果
 単に価値観の相違や共通理解の欠落がストレスを生み出す、というだけに話は留まらない。ストレスに晒されるという意味で感情・情動を磨耗するだけでなく、「コミュニケーションにあたって感情・情動的表現が対象への働きかけの可否を大きく左右する」という事態がもたらす種々の帰結について考えてみて欲しい。現状、共通理解や共通基盤が少なく、お互いが保有する文化や語彙も決定的に違うなかでコミュニケートする場合、対象との文脈を形成するための共通文法として利用可能なものはあまり多くない。そういった状況下だからこそ、ホモ・サピエンスすべてに共通した文法、即ち非言語レベルの感情・情動のシグナルが非常に大きくモノを言うようになるわけで、文化や価値観の共通基盤がバラバラになればなるほど、万人に共通した*3プリミティブな水準のシグナル交換に頼らざるを得ない割合は高くなる。そして感情や情動を駆使することがコミュニケーションの技法として脚光を浴びることにもなる。局地化する一方の文化・言語の文法が、もはや蛸壺化した局地戦でしかコミュニケーションに寄与しないのとは対照的に、プリミティブな非言語シグナルのやりとりは殆ど全ての相手にeffectを期待できる汎用性の高さを持っている。実際のビジネスにおいては、言語レベルのやりとりが成功しなければ契約等は成立しないけれど、その契約の可否に修正を与える要素としての非言語シグナルの役割の大きさは、(文化・共通基盤の役割とは対照的に)相対的増大の一途を辿っていると私は考える*4
 
 上記のような感情・情動シグナルの役割を意識するマニュアル作成者や個人は、コミュニケーションにあたってそれらを駆使しようと意図してしまいがちである。もちろん感情や情動を意図的に用いることは、相手に与える印象を変えたり、言語レベルのやりとりを補佐したりするうえで有効だし、十分柔軟な感情・情動シグナルの使い手は殆どの対象に好きな効果を与えることが出来る。だが、これは物凄く疲れることでもある。意図していないのに喜怒哀楽を表出することは、感情・情動の調節に大きな負担を強いる、実は非常に脳負荷の大きな作業である。素直な感情表出もくたびれるが、感情を殺したうえで人工的に怒ったり笑ったりするのはもっとくたびれる。だが、適切なコミュニケーションを志向する個人や、品質の高いサービスを提供させたいと思うマニュアル作成者は、そんなことを忖度せずに感情・情動シグナルのefficacyを最大化しようと意図してしまう。「使える道具は使わない手は無い。」それは気持ちとしては分からなくもないが…。
 
 しかし、感情・情動シグナルを人工的に改変することを自分自身に/従業員に強いることが過ぎると、

A.感情・情動シグナルを操るのが巧く、かつ使い込み過ぎてしまう人が壊れてしまう
B.感情・情動シグナルを操るのが普通な人が、人並み以上に使うよう強いられ壊れてしまう
C.感情・情動シグナルを操るのが下手な人が、人並みに使うよう強いられて壊れてしまう

 
 A.はまだ自業自得感がなくもないが、B.C.はかなり不幸な話だ。しかし第三次産業従事者がこれほど多くなり、日常生活のコミュニケーションにおいても感情・情動シグナルの有用性が相対的増加を呈している現在、自らリミッターを越えて感情・情動を使い込んでホメオスタシスを潰してしまう人や、強いられて感情・情動を使い込んでホメオスタシスを潰してしまう人が続出するのも無理は無い。余程職種に恵まれていたり、己自身の節制の効くコミュニケーション巧者だったりしない限り、A.B.C.のいずれかに人生のどこかで陥ってしまうリスクはかなり大きいのではないだろうか。実際、臨床場面をみる限りにおいては、A.B.C.による“どう考えても当人の限界を超えて神経遣いすぎてるよ”が主要因と考えられるケースは滅茶苦茶多い*5
 

3.流動性の拡大と脳負荷・情報負荷
 厳密には「感情・情動」というよりは脳負荷の問題になりそうだが、重要なファクターと思われるので挙げておく。場所・モノ・時間などなどの流動性拡大も、個人の脳には実は大きな負荷になっている可能性があることは、もっと認識されても良いと思うのだ。同じ土地で何十年も大根と米だけ作っていれば良かったとか、旋盤工一筋で同じ工場仲間と働き続けるとか、そういった人達の割合は思いっきり少なくなっている。代わって増加したのは、学童期からあちこちに移転し、転勤や転職を繰り返し、仕事内容も次々に変化し、仕事仲間と一からコミュニケートをとる手間暇を強いられる私達のようなライフスタイルである。流動性の拡大は、自由の増大・可能性の増大にも通じることなのでその福音をまず認めるべきだろうが、膨大な選択肢と度重なる習熟・判断が物凄い脳負荷を与えているというデメリットも存在することは忘れるわけにはいかない。馴染みの人同士で過ごす時間とは違い、いちいち新しい環境や新しい人脈に慣れることは大きな試練だ――単なる情報負荷の増大だけでなく、新規のコミュニケーションは感情・情動の面においても多大な負荷を強いるに違いなく、個人の中枢神経を容赦なくこき使うだろう*6。もちろんこの酷使に耐える余地を人間の中枢神経は持っているとは思うものの、そこには個人差と限界が厳然として存在するし、その個人的限界を超えればホメオスタシスは危機に晒される。例えば転居・転職・昇進・新業務・離婚・同居などの変化の一つ一つには殆どの人が対処出来るわけだけど、二つ同時だったらどうだろうか?三つ同時なら?しかも転居転職先に慢性的に感情・情動を酷使する環境が待っていたら?だが、現代都市空間の流動性の早さは人を待ってはくれない。容赦のない変化の波に、私達は常に晒されている。
 

4.感情や情動の負荷は、限界が認知されにくく定量化しにくい
 悪いことに、現時点では、こうした感情・情動負荷というものを的確にピックアップすることが困難であり、このこともまた様々な問題を手遅れにしがちだ。肉体負荷による疲労なら認識出来る人でも、神経の遣いすぎを認識出来ないという人はかなり多い。当然、本人すら気付きにくい中枢神経のオーバーワークを周囲の人が見逃したり軽視したりする確率は高い。
 
 「じゃあ、何らかの形で感情負荷や脳負荷を定量化すれば良いじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、それがまた難しい。肉体疲労ですら個人の限界についての物差しは設けづらいわけだが、個人の感情労働の限界・脳負荷の限界について適切に評価する物差しを設けることは凄く大変だ。「あなたのさいだい感情ポイントは100で、現在の感情ポイントは20です。10以下で鬱病になるので気をつけてください」なんてバロメータがあれば楽だが、そんな便利なものは全く存在しない*7。対象の振る舞いや表情や愁訴を頼りに間接的に読み取るしかないわけだが、限界ぎりぎりのボーダーラインにある人を読み取るのは専門家にとっても容易ではない*8。鬱病の評価スケールならともかく、鬱病前の感情負荷・脳負荷を個人的限界の文脈に即してスケーリングするのは大変そうだ。
 
 そんなこんなで、感情や情動の負荷の問題は気付かぬままにされやすい。これが骨折やテニス肘なら誰にでも気付くところだし、胃カメラなどで“物証”が用意出来る疾患でも他人に説明がつきやすいわけだが、「感情や情動の負荷で摩耗した中枢神経機能」などというものに関して万人を納得させる所見を呈示することは物凄く難しい*9暴飲暴食の果てに消化器が機能異常に陥ることなら誰でも知っているのに、感情負荷や脳負荷をかけすぎれば中枢神経が機能異常に陥ることは誰も知らない。知らないとまずい筈だし、知らないとトラブる筈なんだけど、全然そのことに注意が向いていない。こんなに感情負荷や脳負荷が過大になっているにも関わらず、である!
 

いったいいつまで第三次産業の炭坑夫を強いるんですか?

 こういった現状は一体いつまで続くのだろうか?雇用者側も被雇用者側も気付かぬまま、感情や情動を酷使することを当たり前のこととして受け止めている現代社会。だがこんな事を続けている限り、中枢神経の遣いすぎでパンクする人は増大するばかりだろうし、その負荷の大きさは個人の幸福や適応に様々な歪みをもたらすことだろう。
 
 昔の人は、肉体的負荷がかかりすぎる労働を撤廃することが出来たという。また、公衆衛生や公害対策を通して環境由来の肉体的ダメージの軽減を推進したという。それと同じことが感情労働や脳負荷に関連した今日的問題に対しても施行出来ないものだろうか?情動的負荷がかかりすぎる労働を撤廃することは困難かもしれないにしても、そのリスクをもっと拾い上げることは出来ないだろうか?また公衆衛生的にメンタルダメージコントロールの啓蒙活動をやったり、情報負荷公害(敢えてどういうモノを指すかは書かず、読者の想像に委ねたいと思う)を駆逐したりすることは出来ないだろうか?
 
 確かに肉体労働に比べて一層評価が難しく、(自殺はともかくとしても)直接命を落とすわけではないので軽視されがちな分野には違いないけれども、感情負荷なり脳負荷なりに個人個人の限界があることを認識したうえで色々やったほうが“色んな問題を”“より少ないコストで”回避したり解決したり出来ると私は考える。少なくとも、そういった工夫や啓蒙によって中枢神経のホメオスタシスを守れる個人の一群というのは確かにいると思う。
 
 現代の私達は、世界史の資料集に載っている石炭掘りの子どもを「これはひどい」と思いながら眺めている。だがひょっとすると、未来の子孫達は、世界史の資料集に載った21世紀の感情労働者達を「これはひどい」と思いながら眺めるのかもしれない。また同様に、現代の過剰感情労働の状況を「当時の人は、よくこんな環境に甘んじていたなぁ」と驚くのかもしれない。未来予想はともかく、現代社会が個人に強いる感情負荷・脳負荷の大きさはいよいよ大きくなってきていて、(実は)少なからぬ個人の感情機能や脳機能が限界瀬戸際のホメオスタシスでつま先立ちしている可能性には、もっともっと注意と啓蒙があって良い筈だ。目に見えないから・評価が難しいからといって、とても無視できるものではない。
 
[関連]:メンタルヘルスの観点からみて、限界に達しつつある日本型ポストモダン社会(汎適所属)
 

*1:逆に、肉体を全く使わなければ廃用症候群になるのと同様に…の視点は今回は置いておく

*2:ヨーロッパでは、まだ幾らか残っているかもしれない

*3:少なくともほぼ万人に共通した、とみられている

*4:未だ文化・共通基盤の役割が残存する幾つかの領域ではこの限りではないが

*5:そしてそのような症例においては、A.B.C.の常態を何らかの形で改善出来るならば良好な予後を期待出来る

*6:加えて、街に溢れる情報刺激・情動刺激の多彩さとインターネットも含めた情報機器の使用が個人の中枢神経に負荷を慢性的にかけ続けていることにも注意が必要だ。それらは人間に判断なり反応なりを絶え間なく私達に強いている。

*7:まぁあったらあったで恐ろしい未来が待っていそうだが、略。

*8:充分にホメオスタシスが破綻していれば、話は違ってくるにせよ…

*9:fMRIとかSPECT系の画像診断で将来的には何とかなっちゃったりするかもしれないけど。