シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

現場で診療面接やってる人の意見を転記

 
カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人は今すぐ自殺したほうがよい - novtan別館
http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070516/1179257919
 
 留保の修辞クッションが多々あって直接言及しにくいと思ったけれども、「そういうアレなカウンセラーがいると確かに困るよなぁ」というニュアンスは伝わってきた。二人とも言及の力点は違っているけれど、以下の三点についてはおそらく二人とも共通して危惧しているんじゃないかと思った。
 

  • “権威化したカウンセリング”が無闇やたらと異常レッテルを貼ってまわるのはまずかろう
  • “クライアントを搾取することが目的化した誘導”がカウンセリングの名のもとに行われるのもまずかろう
  • “カウンセリング”という名のコミュニケーションはしばしば操作的・誘導的だから気をつけて取り扱おうね

 
 そこから先のお二方の議論についてはとりあえず置いとくとして、“id:p_shirokumaがよく知っている臨床の人”の文章を以下に書いておきます。
 

病院勤務の臨床心理士は「正常/異常」の峻別をあまり好まなさげ

 
 僕の知っている臨床心理士、とりわけ腕の良いとされる臨床心理士さん達は、あまり正常/異常という色分けには拘っていない感じ。たまーに異様に拘る人もいるけど。例えばバウムテストやロールシャッハテストで“教科書的に好ましくないとされている所見”があったからと言ってそこで異常だ異常だと騒ぐ人は少ないです。それよりも、元気に頑張っている所を見つけてそこを伸ばせないか相談したり*1、「苦手」な所を一緒にみつけて苦手軽減の相談をしたりするほうがよさげとする心理士さんが多い。検査所見や臨床所見からはイレギュラーなモノを取捨選択し、そこを通して(何らかの統計的傾向と合致した)診断の材料とすることはどうしても必要にせよ、折角知った“特徴”を、異常異常と騒ぐよりも苦手な所にアプローチする手がかりとして役立てる為に使うことがよさげ。
 
 心理士さん達は、正常か異常かを知りたがってはいなさそうだけど、目の前のクライアントその人の特徴を大いに知りたがっているし、知って役立てたがっていると思う。
 

臨床心理士と精神科医に関するジョーク

 
 「臨床心理士は、患者さんの良いところをみつけてそこを伸ばそうとする。精神科医は、患者さんの悪いところをみつけて治そうとする」。
 
 このジョークは結構いろんな地域で臨床心理士さんから聞きました。いや、もちろんこれが全てではないけれども。「患者さんの弱点や患部」に拘り過ぎて元気なところが見えないなんて状況は精神科医だろうが臨床心理士だろうが内科医だろうがかなりまずそう。
 

問題点や特徴の抽出の帰結としての診断や判断について

 目の前の他人とコミュニケーションしたいだけなら、必ずしも診断や判断、というプロセスは必要無いような気がする。でも、コトが臨床レベルになると診断・判断というプロセスは避けて通れないと思う。進む・引き返す・何もしない・暫く考えてみる等々の判断が、臨床では避けられない*2。オタオタしているうちに、色々と事態は変化していく。1秒の猶予すら与えられず、右か左かで明暗を分ける局面も、ある。
 
 対象患者さんに何かをしようと思ったら、結局はそれが精神療法であれ薬物療法であれ、治療法や薬物などの適用を決断せずにはいられない。“いわゆる診断確定”まで治療的関与を控える、という事態はしばしばあるにせよ、“ただ無為に判断を延期する”わけにはいかない(アプローチ不要という判断も含めて)。
 
 権威性の問題は多々あることは承知するにせよ、舵を切る時に単なる経験則だけで薬や言葉を選ぶ人よりは、より統計学的エビデンスの豊富な薬物療法をしてくれる人や、より豊富な智慧*3を持っていたり心理的余裕を持った心理士さんがいいな、と思う。あと、個人経営の臨床心理士さんがカーンバーグとかエリクソンとかの看板を掲げていてウリだとしたら、出来るだけいっぱい識っている・識ろうとしている人がいいな、とか。
 
 こういう諸々を「権威に拠った診断」と呼ばれるとしたら、その表現には甘んじる(僕個人は甘んじる)。けれど、例えば僕なんかがこうした権威と呼び得るモノ抜きの裸一貫でやっても、DSM-IVの治療成績を越えることは難しい。DSM-IVの統計的に圧倒的なエビデンスを“素手で”越えようとギャンブルするよりは、少しでも治療成績のパーセンテージが高そうな選択をまずは選びたいのが人情だろう*4。権威にもたれることは必然的に権威をますます権威たらしめるが、その手のマクロで権威な問題を考察する前に、まず僕は目の前の患者さんに最も良さげな(マシな)選択を見出すべく、権威と呼び得るモノから参考になりそうなものを漁ります。そして臨床場面においては、目の前の人に何が出来るのかを第一としたいです。
 

異常者は狭く、異常所見は広く

 他の同業者の話などを聞いてみるにつけても、案外、異常“者”は狭めにとっているかもしれない。[風変わりな所見][疾患を示唆する所見]のひとつひとつは確かに結構広めに引っ掛かるわけだけれど、総体としての個人に診断をつけるにあたって、所見の一つや二つだけでは必ずしも診断→治療とはならない。例えばエリクソンの発達段階を一段階落としていたというだけで異常だ治療だと騒ぐ臨床心理士や精神科医なんていないわけです。風変わりな所見や異常所見の数・組み合わせ次第では「疾患を示唆」ということになってくるかもしれないけど、異常所見は広めに⇔個人総体の判断は狭めに、ぐらいの湯加減じゃないでしょうか(ましてエリクソンの発達段階とかマズローの欲求段階とかに関しては尚更)。心理テストなり臨床兆候なりのなかには、非常に広く引っ掛かる水準のものが少なくなくありません(なかには昏迷状態のように、単体でも極めて重大な所見というものはありますが、どれがどのぐらいヤバいのかや、どんな組み合わせが怖いのか等は、場数踏まないとわかりにくそうです)。異常所見や風変わりな所見の検出と個人の治療的要請との間には、しばしば大きな距離があるのですが、そこを誤解している人が少なくないように思えます。
 

共通言語として

 DSM-IVに限らず、権威と呼ばれ得る諸々はセラピスト同士や精神科医同士、さらにコメディカル同士の間で情報を共有するにはありがたい、という点にも注目したいです。紹介状を送るにせよチーム医療を行うにせよ、共通理解に際して学問的ベースや診断基準があれば「他の従事者が意図していること」を知る手がかりにはなります。前医と診断がイコールでない場合でさえ、前医が何を考えて治療を試み難渋したのかを知ることは大きな手がかりになる。共通言語としての、権威と呼ばれ得るそれらは捨てがたいです。
 

診断カテゴリーと個別性

 とは言っても“教科書に載ってそうな”患者さんでさえ、一人一人の個別性を無視するのはやばい。背負っている歴史・薬物への反応性・性別・家族構成などなどは全員バラバラですし。そこら辺を無視して杓子定規に言葉なり処方箋なりを送っていても、なかなか個人個人の凸凹に対応出来ないと思う。そこのところは臨床心理士も精神科医もあまり変わらないんじゃないかな。既存の診断基準なり治療体系なりに注意を払いつつも、それだけじゃあ色々と上手くいきません。
 

尊敬する老師の口癖(まとめにかえて)

 
 「幻聴が聞こえている人でも、脳の機能異常は全体の数%ぐらいで残りの90%以上はちゃんと働いているんじゃないのか。だとしたら、異常を治す異常を治すというだけじゃ片手落ちで、元気なところを伸ばしたりするのも大事じゃないのか」
 
 

 id:p_shirokumaがよく知っている臨床の人の文章は、以上です。
 
 

*1:もうちょっとそれっぽく書くなら、代償構造を伸ばしてあげたり、みたいな。

*2:厳密には、他人とのコミュニケーション全般においても言えることだ。どこで指示的になり、どこで支持的になり、どこで傾聴するだけにするのか、深入りを避けるべきなのか、等々

*3:知識、とは敢えて書かない。幾ら本を首の上に積み上げていても、頸骨が軟弱で折れているんじゃまずそうだから。

*4:studyに際しては、患者さんの同意を頂いたうえで新しい戦略を開拓する、ということがあるわけだけど、それはあくまでstudyであり、患者さんの同意があってのことだ