シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コミュニケーションの汎用性に影響を与える要素群

 
 話題が豊富なだけではコミュニケーションは覚束ない - シロクマの屑籠
 
 上記リンク先において私は、「話題の手札の広さ・深さが必ずしもコミュニケーションの成否を左右するキモではない」と書いた。話題という名のカードを切る人の、様々な要素によって、同じ話題の豊富さも異なる結果を生み出すと推測している。
 
 では何がコミュニケーションの成否を決定づけるキモなのだろうか?もちろん単一のファクターによって決定づけられるとは到底思えないわけで、多元的・複合的な要素によるに違いない。だが、特定のコミュニケーションシーンではなく、比較的様々なコミュニケーションシーンに影響を与えがちな比較的汎用性の高い要素群をピックアップすることは(将来的には)可能だろう。残念なことに、私はそれがどのように記述可能で、そのなかでどの辺りが後天的学習によって補える技術なのか未だ十分に分かっていない。
 
 以下の箇条書きは抽象的で、いつも自分が思っているところを自分のことばで書き残したものに過ぎず、誤解されやすくわかりにくいものだろう(書いた自分にとってはその限りではない)。このなかでどれが後天的学習に補えるのかや、補うための技術論は後回しになっている。しかし、以下の諸要素を好ましい条件で多く持っている人は、あまり持たない人よりはコミュニケーションの汎用性が高いものだとは思っている。
 
・勇気
 なにげに勇気が筆頭要素かもしれない、と思っている。脱オタするのであれ、これから誰かにコミュニケートしていくのであれ、失敗や恥を恐れる怯懦が強いとコミュニケーションは様々に不利になる。また、失敗した時に後ろにのけぞって斃れたのか、前のめりに斃れたのかは、失敗から教訓を学ぶ際にも影響を与えることだろう。
 
 この勇気なるものの由来や、勇気の獲得手法についてはここでは触れないが、勇気の有無がコミュニケーションの様々なシーンにおいて短期的〜長期的な影響を与えるのは殆ど間違いなく、コミュニケートしたい対象に対して勇気が欠けすぎる人というのは、かなり厳しいだろう。
 
・智慧
 智慧、という表現も抽象的過ぎるけれども、知的能力という一言でまとめるわけにはいかなそうなので、敢えて智慧という単語を(つまり、まだ私もよく表現しきれない・分かってない、ということになる)。智慧に含まれるうちの狭義の知的能力に関しては、多かれ少なかれ、先天的要因によっても決定づけられていると考えられるが、狭義の知的能力が低ければ絶対駄目かというと、どうやらそうではない予感がする。
 
 トライアンドエラーにおける教訓抽出にせよ、話題の獲得なり話題のチョイスにせよ、危うきに近寄らない嗅覚にせよ、コミュニケーションの成功率やコミュニケーション対象の選択に“智慧”が要請されることは殆ど間違いが無い。また、自分の灯台もとに広がる防衛機制の暗闇に足元を掬われることはコミュニケーションにおいて不可避の災厄だが、智慧によって頻度/程度をマシなものに出来るかもしれない。
 
 智慧が少なすぎる人は、失敗しても教訓を拾い上げることが出来ないし、危ういコミュニケーション対象にも近づいてしまう。話題の獲得も遅く、要領を得ない、と危惧される。
 

・意志の強さ
 意志が薄弱であればあるほど、何事かを達成することも身につけることも難しい。意志の強さ、とりわけ何かを身につけたり挑戦したりする際の意志の強さは、熟練や学習の十分条件ではないが、しばしば必要条件ではある。何かをマスターする期待値だけでなく、しばしば意志の強さが他者評価にも影響する点にも留意しなければならない。
 
 逆に意志が弱い人は、修練の途中で挫折して身につけるべきものが身に付かずに終わってしまう可能性が高く、そのことが最終的にはコミュニケーションにおける手札の多寡だけでなく、手札さばきの熟練を遅いものとするだろう。
 
 この、意志の強さをどのように高めていくのかに関しても、まともな検討が必要だと常々感じてはいるのだが。
 

・若さ
 新しく何かを身につける、という意味に関する限り、若ければ若いほど新しい人・モノとの接触は易しい。歳をとった人は、既に十分な経験を蓄積させているなら問題ないにせよ、新しいことを獲得していくという一点に関する限り、若い人のほうが高い可塑性を有していることは否めない。
 
 要は年齢相応の経験なりコミュニケーションの円熟なりを蓄積させていれば問題は無いわけだけど、歳をとってからコミュニケーションに関するスキル/スペックを再獲得していくのは、若い人よりもずっと大変だろう。
 
・ルックスやエチケット
 審美的特性や匂いの類は、それ単体ではコミュニケーションを制するわけではないし、コミュニケーションにおける主反応物質ではあり得ない。あくまでコミュニケーションの触媒として、+−の修飾を与える。とりわけ初対面の場面や一回きりの評価づけの場面においては、ルックスやエチケットは微細にせよ殆どのコミュニケーション対象に影響を与えるので、あまりにも軽視しすぎることは勧められない。
 
・表情や声音などの非言語レベルの情動表出
 コミュニケーションが非言語レベルでも遂行される限りにおいて、言葉に関する智慧だけではなく、それを補佐する非言語レベルのシグナルの巧拙が様々な影響を与えることは避けられない。わかりやすいメッセージを送るにしても、表情をマスキングするにしても、非言語レベルのシグナルをどこまで的確に制御・発信できるかが常に問われることになる。とりわけ、自分とは異なる文化圏・コミュニティの人とコミュニケーションをとるにあたって、非言語レベルのシグナルが不適切であればあるほど、様々な弊害が発生することに注意しなければならない。通文化的に認められる基本的な喜怒哀楽のシグナルは、文化ニッチ細切れ状態の現代社会においてコミュニケーションの数少ない基軸通貨の一つであることを軽視するわけにはいかない。
 
 なお、非言語レベルのシグナルは、先天的な顔面の形態などにもよる一方で、訓練による獲得や、顔面表情筋の形成を通して後天的にも相当の鍛錬が可能な分野と推定している。少なくとも、四十になって自分の顔に責任を持てと言われるぐらいまでには、可塑的な部分を多く含んでいると私は確信する。
 
・好奇心
 自分の持っていないもの・自分とは異なるものへの好奇心の多寡は、話題なりスキルなりの獲得に大きな影響を与える。とりわけ、既知ではなく未知のものに対する好奇心は、自分とは異なるモノを多く持っているコミュニケーション対象から新しい趣味なり知識なりを吸収できるか否かを左右し、そのことは対象とのコミュニケーションに直結する。「ねぇねぇ、それ面白そうだね、もし良かったら教えてくれる?」という態度の人と「なんだか分からないけれどもつまんなそうだね。その話しないでくれる?」という態度の人とがいたら、極めて多くの人は前者を選択しがちである。手札の獲得だけではなく、“教えていただく”という姿勢そのものがコミュニケーションを架橋し得ることに留意。
 

・劣等感の多寡
 勇気の有無や意志の強弱ともダイレクトに関連するので挙げるべきか迷った。しかし、劣等感が強いか弱いかという数直線において、劣等感が強すぎるほうに位置していると色々な問題が引き起こされる、ということまでは分かっている。優越感の誇示・虚栄心の果ての嘘・劣等感を転倒させた自意識の備給etcの度合いは、個人の適応の幅やコミュニケーションにおける失敗確率に影響するには違いない。
 

・執着の多寡
 渇望と執着が強ければ強いほど適応が阻害されることには注目しておく必要がある。なお、意志の強さと執着の多寡は必ずしも比例しない。意志堅固であっても執着の強すぎない人というのも世の中にはいて、もちろんそういう人はコミュニケーションに際して苦しむことは少ないと私は考えている。逆に、意志は薄弱でも執着が強い人は、達成できるところ少なく達成したいところ大きく、現実と願望との落差の故に生き地獄の如き日々を過ごすことになる。等身大の自分の意志・遂行能力と執着とのバランスを欠いている人は、専ら怨嗟の日々を過ごすことになる。
 
 コミュニケーションの次元においても、意志と遂行能力とのバランスを欠いた執着に取り憑かれている人は“何かと大変”だろう。
 
・ストレス対処の巧拙
 これも表現がかなり抽象的だが、現時点ではこの程度の表現しか出来ない。ストレスは悪いモノ、と考えている人もあるようだが、実際には娑婆世界に生きる限りはストレスとの付き合いは必須であり不可避だ。となると、そういったストレスにどのような対処方法を持っているのか・その対処方法の巧拙が適応に大きな影響を与えることとなる。例えばストレスをひたすら我慢するしかない人は、いつかダムが決壊するかもしれない。また例えばストレス解消をひとつの拠り所だけにお任せしている人は、それが無くなったら詰んでしまうかもしれない。
 
 短期的なコミュニケーションに限定するなら、ストレスはとにかく我慢できれば大丈夫ということになるかもしれないが、日々のコミュニケーションにおいてストレス対処行動が拙劣すぎれば溜まったり何かにaddiction起こしたりするリスクを負うわけで、ストレス対処行動の如何は中期〜長期的なコミュニケーションにおいては極めて重要、と考えざるを得ない。ストレス対処行動の巧拙は、メンタルヘルスに関する問題にも直結していることは言うまでもないが、詳細は割愛する。
 
 
 

まだまだ先は長い。とても書き足りない。だが諦めない。

 
 …上に諸要素として挙げたものは、どれもこれも殆どのコミュニケーションの可否に影響を与えるものだと私は考えている。誤解を招きそうな拙い表現であり、全く整理されていない箇条書きなわけだけれど、以上のようなファクターが揃っていれば揃っているほど汎用性の高いコミュニケーションがとりやすく、以上のようなファクターが揃っていなければいないほど困りやすい、ということまでは分かっている。私は全然知り足りず、書き足りない。まだまだ先は長いし、きりがないのは分かっているけど、私は現代の世の中における汎用性の高い適応技術の研究を諦めない。
 

[関連、というかずっと昔に書いたやつ]:性格の改善についてその4(汎適所属)