シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

話題が豊富なだけではコミュニケーションは覚束ない

 
2007-04-29 - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
 
 これは確かに“非モテのカードゲーム”に違いありません。この極端な比喩を書いてしまうからには、コミュニケーションなり適応シーンなりでお困りでしょうし、大いなる勘違いを惹起しかねないかと。
 
 確かに、レアでコアな趣味なり何なりが適合した時の喜びは大きいですし、巧くいけば二者関係の強烈な接着剤となり得ます。また、手札の数が多いこと・知識ジャンルの引き出しが多ければ多いほど重宝するということにも異論はなく、例えば症例12補足:文化多様性を生かしたカードゲームのようなコミュニケーションと、文化ニッチを越えたコミュニケーション(汎適所属)に挙げられているような話にも納得できる所があるわけです。コミュニケーションのモデリングのひとつとして、カードゲームに喩えること自体も決して間違っているとは思えない*1し、(republicさんやLさんが文中で述べている通り)モノカルチャーの清一色では不便極まりありません。レア度の低い、比較的誰とでも話が出来るカードを持っておいたほうがつぶしがききやすいのはわかります。
  
 しかしですね、レア度の低いカードをある程度揃えて、レア度の高いカードを隠し持って…というのはコミュニケーションの唯一絶対の攻略法でしょうかね?好もしい相手をみつけて、カードデッキだけしっかりしてれば良好な関係を築けるのでしょうかね?私、疑問に思います。
 

  • 疑問1:デッキ上等、プレイヤー下等

 まず、幾らバリエーション豊富なカードを持っていたとしても、それを使いこなせなければどうにもなりません。レア度の低いカード→レア度の高いカードという戦術は基本事項としては同意できなくもないわけですが、それだけじゃあどう考えても駄目です。例えばコアな趣味の共通点を見出したからと言って、“いわゆるレアなカードばかり”を出し続ける人間関係というわけにはいきますまい(勿論republicさんもこの前提は分かってらっしゃるとは思いますが)。
 
 実際には、どこでレア度の低いカード→レア度の高いカードにランクアップするのか・また逆にどういった場面ではhobby以外の汎用カードを切るのか、その判断こそがコミュニケーションにおいては難しいんですし、そこら辺を勘違いすれば、オタク同士のコミュニティにおいてですら痛い人認定をを免れません。不幸なステロタイプを紹介するなら、オフ会で隣りの席に座った女の子が、偶々「俺の大好きな『新海誠』に興味を持っていた」と分かった時に、一呼吸置くのか、オタマシンガントークに逝っちゃうのか?そこの判断と匙加減が難しいし、コミュニケーションの拙劣な人がしばしば失敗するポイントだと思うのです。仮に彼が、低レア度カード→高レア度カードまでの、コミュニケーション話題のグラデーションを達成していたとしても、相手に呈示する*2カードの湯加減なりタイミングなりが分からなければ駄目だと思います。いや実際、ここらの湯加減匙加減をミスって損しているオタクさんなり、サブカル野郎なりって沢山いると思いますし実際私はそういう人達を見かけてきました。また、そういう人は“空気の読めない人”認定されることが多いようにみえます。
 
 手持ちのカードが豊かなだけでは駄目で、いかに巧みに出せるか・運用出来るのかの技術なり素養なりがグダグダなら、膨大なカードを手元に集めたその人はきっと、「僕はこんなに豊かなカードを持っているのに、誰もわかってくれない!プンプン!」となってしまいそうです。
 

  • 疑問2:レア度の高いカードをきりあう仲が良い仲?

 republicさんは、以下のように仰いました。

 レア度高いカード切って友達になった人の方が絶対仲良い友達になれると思うんだよなー。適当に表面だけのコミュニケーションをいくらとっても全く意味ないんじゃないか。とかかんがえるのが非モテか。

 ええ、非モテです。どこかがおかしいですよ、この発想は。倖田來未聞いている子は仲良い友達になれなくて、わけわからんちんな洋楽聞いてる人は仲良い友達になれるとですか?引っ掛かります。
 
 「レア度の高いところで一致すれば仲良くなれる」というのなら、サブカルやってる人達はサブカル仲間といつも仲睦まじく生活できそうですが、さて、どんなもんでしょうか?「レア度の高いところで一致すれば仲良くなる」ではなく、「強い思い入れのある共通点で一致すれば仲良くなれる」とか「二者のなかで共通する部分が大きければ仲良くなる」なら、幾らか分かるような気がします。
 
 むしろ、レア度の高いカードを持っていてお互いに興味が一致したところで、些細な意見の相違や楽しみ方の相違があるだけで仲違いしたり、足を引っ張り合ったりとか、そういうのもあると思うんですよ。“絶対仲の良い友達”などというのは理想論に過ぎます。むしろレアな趣味をある種のレゾンデートルにしている人のなかに、「相手よりも自分が知識を持っていることを確認しなければいられない人」というのがごまんといるわけで、そういう人達がレアカードを突きつけ合わせると、“僕とキミとは引き分けだ、平和最高”ではなく“優越感ゲームの悪循環”に陥ってしまうことも多いのではないでしょうか。いや、その優越感ゲームの帰結として、趣味への造詣が深くなるというのなら、それはそれで結構なことだと思います。ですが、それは多分、あまり仲の良いとは言えない仲なんじゃないかなぁと思います。えーと、そこらの女子高生同士のほうが案外仲が良いこともあるんじゃないかな、と。
 
 が、しかし、そこのところをサブカル非モテの人達はやっぱり勘違いしてしまうし、そういう願望を持ってしまう。そういう願望を持ちたくなる気分というのは了解可能には違いないにせよ、現実は違うんじゃないかなぁと思います。レア度の低いカードが支点になっているにも関わらず仲の良い友人関係とか、親しさを感じる仲というのも沢山ある筈です。
 

  • 疑問3:カード運用側の諸条件

 そして、カード運用側の諸条件が悪ければ非常に苦しいであろう点にも注意しなければなりません。幾ら話題が豊富に呈示できる人だとしても、話術なり服装なり目線なり、そういった種々の要素を疎かにしている人は、評価にマイナス修正を被る可能性が高い筈です。例えば早口の裏返った声で話す男性は、そうでない男性よりは色々と損をすることでしょう。スマートにカードを出さなければ、「何このプレイヤー!キモー」などと思われかねないのがコミュニケーションです。話題の幅と深さが十分だとしても、カードを出す人そのものが汎用性のある態度なり運用なりで話題を差し出さない限りにおいては、一枚一枚のカードにいちいち“ペナルティ:−30%”とかついてしまいかねません。
 
 ええ、話題という名のカードは二者関係を繋げる重要なファクターには違い有りません。ですが、話題というカードだけでコミュニケーションの可否を評価するのはせいぜい(かなりイノセントな)オタクコミュニティの住人ぐらいなもので、そうでない人達はカード運用側の諸条件をいちいち確認してまわるのが実際のところです*3。特に、コテコテのオタク趣味文化圏以上に“恰好良さ”なるものが混入しやすいサブカル界隈(とオタクコンテンツをサブカル“的”に消費する界隈)においては、この傾向から逃れることは相当に困難ではないのでしょうか。私の杞憂でしょうかね?これ?
 
 誤解を回避すべく念のため申し上げておきますが、“カード運用側の諸条件”なるものは顔面・声帯の形態や身長などの身体的条件だけではありません。例えばですが、「こんなにレアカード持ってる俺TUEEEE!それでもって、Mr.Childrenに酔ってるお前m9(^Д^)プギャー!」と思っちゃっている人は、すぐに相手に勘付かれコミュニケーションに大きなマイナス修正を被ることでしょう。レアなカードを持つことは素晴らしいこととしても、その素晴らしくレアで“文化的な”カードを持っていることを鼻にかけすぎるならば、むしろ毒になりかねません。同じ趣味文化圏を抱く同志達も、それを自慢している度合いが高い人よりは、そうでない人との親交を望むことでしょう。
 
 また、「俺の文化圏最高!俺の文化圏が一番楽しい!他の趣味はつまんねーなー。でも、一般人どもとコミュニケーションとる為に、ま、仕方ないから軽く覚えてやるか」という心象を持っている人も、心に爆弾抱えてコミュニケーションするようなモンです。これもバレます。多分バレます。まだ「俺、詳しくないんだ、教えてよ」というタイプの無知のほうが余程マシです。自分が尊敬しているアーティストを“大したことのない俗物”扱いされて頭に来るのは、サブカル愛好家だけではありません。映画マニアでも、倖田來未の好きな女子でも、エロゲーオタでも、モーオタでもたぶん同じで、自分が大好きなコンテンツなり尊敬するアーティストなりを小馬鹿にしているとおぼしき人とは友達になりたがらないと思いますし、それでコミュニケーションの幅が大幅に狭くなってしまうことは避けられません。浅くかじってみることは、カード取り揃えの意味でも好奇心の導火線としても好ましいものの、浅くかじりながら“ま、俺の好きな○○に比べれば大したことないんだけどね”なんて思いを見透かされたら厳しそうです。無知+好奇心のほうがマシかもしれません。
 
 幾ら頭が良くても、幾ら知識があっても、幾ら趣味への造詣が深くても、それが高く評価されるとは限らないのが人と人との繋がりの世界の筈です。「なんで話題や知識の高低だけで俺を評価しないんだ!俺はレアなカードを持っていて、それを評価される権利がある!留保の無い自己承認を!」と願望する人がいたとしても、そうはいきません。話題や趣味のカードそのもの以外に、プレイヤーの持っている諸々の要素が一枚一枚にのしかかってくるのです。
 

「あなたは良いデッキをお持ちのようだ、しかしあなたじゃ駄目なんです」

 コミュニケーションをカードゲームに喩えるのは私も好きですが、実際のカードゲームとは大分違うところがある点に留意しながら喩えることが望ましく、そこを忘れ過ぎたモデリングはまずかろうと思うわけです。どれほどコミュニケーション対象に対して相性が良い話題カードを取り揃えているとしても、(極論言うなら)高圧的で自慢げな話を空気読まずにマシンガントークをやるとまずそうです。また、これはカードゲームやトランプにも当てはまることですが、幾ら良い手札を揃えていてもカードを切る順序とかがなってない人はまぁ駄目でしょうし、ポーカーフェースが可能な相手と表情バレバレな相手との対戦はヤバいでしょう。
 
 趣味に関するレアでコアなカード(話題)を持つこと・深くはないけれども広いカード(話題)を持つこと、どちらも大切ですが、でもそれだけじゃあ駄目ですし、これがコミュニケーションの最大の“キモ”だとは思えません*4。むしろ、少ないカードでも立ち回れる能力だったり、大貧民確定のひどい手でも善戦する能力だったり、欲しいカードを手に入れる能力だったりを有している人のほうが、汎用性の高い適応を達成出来るような気がします。
 
 私は、この汎用性の高い適応の“キモ”にあたる所を記述したいと思い続けて今も果たせずにいますが、少なくとも、その“キモ”が話題・趣味のカードの多寡とは違った所にあるとは確信しています。
 

*1:ただし、あくまで理解を簡略化する為の方便としてのモデル、であるという限定づけが必要なのは言うまでもない

*2:または特定のコミュニティの内部で呈示する

*3:例えば2005年後半の非モテオフ会の時でさえ、参加している自称非モテの人達がいちいちカード運用側の諸条件を眺め回し、評価修正をこっそり挿入していたことを私は見逃しませんでした。非モテなるものを語る人達自身が、「話題だけでは他人を評価せず」話題を投げかける側の諸条件を冷徹なほどに嗅ぎ回っていたこと・気にしていたことを視るにつけても、なるほど、コミュニケーションなり政治なりの娑婆から逃れることは困難なんだなと再確認したものです。

*4:だからこそ、症例12(汎適所属)のLさんでさえ、手札たっぷりでもコミュニケーションに手こずるところが残っているわけです