シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

しかし神風は吹かないし、デカルト神は降臨しないのである。

 
 かつてこの国では、建前の水準でだか本音の水準でだか分からないけれども、気合いと思い入れで戦争が勝てると思いたがる人が沢山いたんだそうな。思いたがる、というのは語弊があるかもしれない。「気合いと思い入れのある我々は戦争に勝つべきだ、勝たなきゃおかしい。よってこの戦争に全精神力を没入している一億火の玉な我々は、勝つべきなのだ。留保の無い戦果の肯定を!」といった具合に、精神性を理由とした“かくあるべき論”が大手を振ってのし歩いていた、と表現すべきか。勝てるか否かと勝つべきか否かを上手く混同し、勝つための物資を勝ちたいという渇望で補えると信じるならば、神風はきっと吹く。――しかし、連合軍は三流SFの敵役でもなかったし、デカルト神も降臨しなかった。留保の無い戦果の肯定など、三文芝居のご都合主義と何も変わらない。にも関わらず、昭和二十年頃まで「留保の無い戦果の肯定を!」という思いこみから脱することが出来なかった人は(中枢にいた人も含めて)少なくなかったんじゃないかと思う。
 
 あれから六十余年。
 太平洋戦争当時の日本軍に横行した“いわゆる精神論”では現実に対処出来ないことを誰もが知り、ご先祖さまの行いを嘲笑する人も多い。しかし…本当に僕らは学んだんだろうか。物量とか戦略とかを“かくあるべき論”によって混同する性質を治癒せしめただろうか。さぁ、巷に耳を傾けてみよう。
 
「協調性と愛社精神があるならアルコールは呑める筈だ、肝臓なんて関係ない。よってこの宴会でお前は飲酒すべきなのだ。留保の無い宴会の肯定を!」
「気合いと思い入れがあるなら後遺症は残らない筈だ、治らなきゃおかしい。よってこの治療で彼は完治すべきなのだ。留保の無い完治の肯定を!」
「こんなに異性に渇望している以上、俺にも恋愛はあって然るべきだ、俺には恋愛の権利がある。よって日常のなかで俺は美人と交際すべきなのだ。留保の無い恋愛の肯定を!」

 
 “べき論”“思い入れ”に基づいて留保の無い○○の肯定を叫ぶ習慣を引きずっている子孫が多いみたいですね。
 
 
 “べきかどうか”“思い入れの強弱”は、事物の可否を決定づけるせいぜい一要素に過ぎないのだが、自分達の願望が絡むと盲目になってしまうのだろうか。まぁ、戦争とは異なり、一人の利害に関してはグズれば通るところも娑婆には結構あるので、ミクロの個人が我が侭を通す戦術としての“留保の無い○○の肯定を!”はわからなくもない。だけどもっとマクロで集団なレベルの“べき論”“思い入れ”は無意味で、無力で、視野狭窄を促進するという意味では有害ですらあるだろう。戦闘機は気合いだけじゃあ飛んでくれない。アルコール分解酵素*1は思い入れだけで生成されるものじゃない。かわいいあの娘を念じるだけで振り向かせるのは不可能だ。だけど、「留保の無い○○の肯定を!」と叫ぶ人には、それが分からないか、分かりたくないんだろうな、と思う。出来るかどうかよりも、出来るべきかどうかだけを考える人達。しかし神風は吹かないし、デカルト神が娑婆に降臨することも無いのである。
 

*1:実際はADHのほうがアレだけど