シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

笑ってくれればそれでいい

 
 俺個人の男女交際観の欠片として。
 
 自分の恋心に無我夢中なあまり、未来の交際相手たる彼女達の心境を慮る気配すら見せないという有様を、仮にも恋愛と呼ぶのはいかがなものか、と思う。自分の発情に無我夢中なあまり、惚れたと相手の心情や都合に微塵の配慮もみせられないというのはやはり醜態の一種であり、中学生や高校生ならいざ知らず、いい歳したおっさんがやらかす限りにおいては見苦しい。幾ら自分の為の恋とはいえ、対象異性そっちのけで自分の気持ちに溺れるばかりの恋愛というのは、エロ本片手の一人相撲とどう違うのか。必ずしも判りかねる他者としての女の子の心情は、そこでは蔑ろにされている。ラ・ロシュフコー伯爵あたりなら、「のさばる自己愛」とか呼びそうだ。
 
 好きな女の子だからこそ、相手の心情を可能な限り酌もうと努めるのではないのか。惚れた相手だからこそ、不安や不信を解きほぐしてあげる為に想像力を働かせるというものではないのか。こうした酌量や想像を欠いた恋慕では、「一方的な発情」と括られても致し方あるまい。
 
 俺は純愛などという幽霊はみたこともないし、信じてもいない。よって、惚れた女性の心情や都合に想像力を巡らして配慮することが純愛の道から外れる「下心に基づいた配慮」とか「下衆な手管」だとしても、まず気にすることはない。どれだけ自分がピュア(笑)な気持ちで恋心を抱けるかよりも、対象異性がどう感じるかのほうが遥かに興味深いし、そちらのほうに興味を持ったほうが“精液臭い発情期”を通り過ぎた後にも冷めない安定した関係を残しやすくもあるんじゃないかと思う。惚れた相手の笑顔をみようと思ったら、自分の心がいかに純粋であるかよりも、相手女性の心情や都合にいかに接近できるかのほうが遥かに重要で、価値がある。そして、惚れた相手の笑顔をみやすいような関係こそを、俺は望む。惚れた相手の為ということは俺自身の為でもあるわけだから、何が問題あるというのか。
 
 2007年の俺は、そう考えている。
 道なかば。まだまだ遠い。