シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

防衛機制は、観察者の心的傾向があった時により強く感得される

 
(注:22:00頃にタイトルを少しいじりました)
あのとき僕は「日本のアニメは世界一だよねっ!」と頷いてあげるべきだったのだ - シロクマの屑籠
2007-02-15 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
 
 先日私は、id:crow_henmiさんから刺激的な指摘を頂いた。詳しくはリンク先をごらん頂くとして、最も重要な部分を引用すると、

シロクマ氏は自らのヲタに対するネガティヴなイメージや願望を、手ごろな対象に投影したのだと考えるほうが合理的でしょう。そんなものを勝手に投影されてアクションをとられたら、たとえ非ヲタの人間でも普通に怒ると思います。このテキストは、キモいヲタに対する素面の人間の対応失敗例としてではなく、ヲタに対してネガティヴなイメージを先行させ、それを制御せずに表出してしまった失敗例、つまりはシロクマ氏自身の自意識の問題として読まれるべきではないでしょうか。

 とのいうものである。別段、“これは、素面の人間に対する対応失敗例です!”などと宣言したわけでもなく、私自身の自意識の問題を吐露したテキストであるにも関わらず、わざわざcrow_henmiさんがこのように丁寧な解釈をつけて反応して下さった経緯については別の機会に検討するとして、私の自意識の問題がこれほどまでに強くまとわりついた“防衛機制に関する解釈”に如何ほどの有用性が期待できるのか、有用性を高めるにはどうすれば良いのか、そしてどのような限界があるのかについて、今私が考え得るところの意見を述べてみる。
 

1.防衛機制への感得は、分析者に内在するコンプレックスがある時にやたらとよく感得できる

 
 crow_henmiさんがご指摘する通り、私は「自分自身の自意識を件のオタクに投影したからこそ、私にはそう見えたんだ」と理解している。私が同族嫌悪あまって件のオタクの痛い振る舞いをdisってしまったのは、私自身が「何らかの共鳴を起こしたからこそ」発生したインシデントなわけで、このインシデントは私自身が彼に対して投影を行える何らかの余地がなければ発生し得なかった、と言うことが出来る。2007年現在の私が“ああ、あの時の俺は同族嫌悪によって精神分析でいう投影の防衛機制を起こし、あまつさえコントロールに失敗したんだな”と思えるわけだけれども、当時コントロールに失敗した私があのような反応を顕わにしたということは、投影の防衛機制を動員しなければならない要請が強すぎたからこそ発動した、と認めざるを得ない。よって、
 

基本的にこのテクストはシロクマ氏の主観で進んでいきます。客観的事実は存在していません。ですから、シロクマ氏が対象の心理を掌の上に乗せたように詳細に語る辺りなど、全く信用してはいけません。ぼくらに他人の何がわかりますか。ごく一部でしかない。少なくともぼくには、そうした対象をそこまで厳密に「素早く見抜く」ことなどできません。

 この指摘はあながち間違ったものではないと思う。私が(少なくとも当時)自意識の鬱屈したオタクと共通したメンタリティを持っていて、それを投影の機序を通して外在化していたというのはおそらく事実であり、若気の至りと修行不足とはいえ、当時レジデントだった私が初対面のオタクに迷惑をかけてしまったことを懺悔している次第である。
 
 さて一方で私は、「1990年〜2004年頃までのシロクマという人物は、オタク文化を通して自意識を備給する自分自身を嫌っていて、しばしば投影の機序を通して外在化させることが強い」という自分自身の傾向を知っている。つまり、「自分以外のオタクがオタク文化を通して自意識を備給したり優越感ゲームに舌なめずりしているのをみると脊髄反射的に胸糞悪くなる」というのが自分の性質だということをメタ視点レベルで理解している。このような理解が備わっている時、私の情動的脊髄反射は、ある種のマーカーとして機能することにお気づきだろうか。
 
 つまり、私自身の行動を照覧するメタ視点において「シロクマが自意識過剰に特有のreactionを呈したぞ!」と気付いたなら、その対象は極めて高い確率で自意識過剰なのである。この場合、私自身が投影という防衛機制を展開することをむしろ逆手にとるわけである。同族嫌悪の防衛機制が働いたということは、つまりその対象は「シロクマという、オタク趣味に対して十字架を背負った人間を過剰反応させる何かを含んでいる」と読み解くわけだ。幸い、防衛機制のなかでもとりわけみえにくい抑圧などに比べればまだしも、投影は比較的メタ視点による観察を行いやすいほうな防衛機制なので、私は自分自身の投影をしばしば対象観察のマーカーとして利用する傾向にある。
 
 crow_henmiさんは「一目でそれを見抜けない」と仰っている。これは、crow_henmiさんがオタク文化の称揚を通して自意識を備給する・優越感ゲームに浸ることに対して私のようなコンプレックスを保持していないからなのかもしれない*1。または、オタク文化やオタクである自分自身に関するネガティブな心象を全く持たないからかもしれない。
 
 しかし幸か不幸か、私シロクマはそれを保持している。私は、自分自身が様々に凸凹したコンプレックスを持ち、防衛機制を展開しがちな人間だということを思い知らされている。だからこそちょっとした反応に対しても投影の防衛機制を働かせてしまうし、逆にそれを手がかりにすることも出来る。私がオタク界隈について分析を試みてやまない理由のひとつに、オタク界隈に対して何のコンプレックスも無いからではなく、むしろ私自身が(少なくとも過去においては)オタクである自分自身なりオタク趣味を通してしか自己実現出来ない自分なりを持て余していたという刻印を有しているから、というのもある。だから私はオタクを凝視するのだろうし、興味を惹起されるのだろう。自らがどのような防衛機制を駆動させるのかをメタ視点から監視しつつ、私はオタクにまつわる心的傾向を凝視する。そして内緒の脳内カルテにしばしばこう書くわけだ。
 
 「その時、俺はid:xxxxさんが目を輝かせたことに対して嫌悪感を覚えたが、ぐっと我慢した」
 と。
 
 そしてこの嫌悪感の傾向・由来・共感度などについてメタ視点から自分自身を観察することを通して、私は観察対象がどのような心的傾向を保有しているのかを推測する。よって、
 

基本的にこのテクストはシロクマ氏の主観で進んでいきます。客観的事実は存在していません。ですから、シロクマ氏が対象の心理を掌の上に乗せたように詳細に語る辺りなど、全く信用してはいけません。

 の前半部分に関しては全く同意するとともに、後半部分については幾らかの意義を申し立てる。私は、対象をありのまま客観的に把握してはいないのは確かだが、私の主観的反応(防衛機制などはその最たるものである)をリトマス試験紙・顕微鏡として用いたメタ視点を通して対象を観察している。確かに私は対象の心理を直接把握していないが、自分自身(とりわけ自分自身の情動反応)が対象の心理に対してどのような反応を起こしたのかを把握することについては若干の研鑽を積んでいるつもりではある。このような観察方法は完全なものではないけれども、対象の心理を推定する手がかりとして、私はむしろ自分自身の防衛機制の発露を熱心に記述し、熱心に研究し続けるだろう。
 

2.自分自身の防衛機制(投影など)を通した対象観測の精度をあげる為の諸方法

 
 つきつめていけば、似たもの同士における同族嫌悪にせよにせよ、逆転移にせよ、自分自身に内在する心的傾向があってこそ発生するものと私は理解している。さらに思い切って私見を述べるなら、分析者の何らかの凸凹した心的傾向が無ければ防衛機制も発生し得ないのでメタ観察が成立しないのではないかとも思っている。幸か不幸か、分析者が凸凹した心的傾向を有していない(注:ここに凄い誤植があったので直しておきました)ということは絶対にあり得ないので、分析者が完全にまっさらなスクリーンになり得ない代わりに、自分自身の反応をメタ観察することを通したある種の観測方法は常に幾らかの有用性を保っているとは信じることは可能だ*2。では、このような『対象とのコミュニケーション→自分自身の反応惹起→自分が対象をみてどう反応したのかを観察→自分の防衛機制や共感を通して対象の心的傾向を類推』という観測作業の精度をあげるにはどのような研鑽が有用だろうか?数秒で「あのオタは優越感ゲームをやっている」とあたりをつけるにはどうすればよいのだろうか?以下に、期待し得る手法を紹介してみる。
 
【1.スーパーバイザーによる指摘と自己分析】
 まず第一に気をつけなければならないのは、「じゃあ自分はどんな事に防衛機制を発動しちゃうのか、自分自身はどんな物事にコンプレックスを抱いて火病るのか?」を出来るだけ詳しく知らなきゃまずかろう、ということだ。例えば私の場合、同じ趣味を持たない相手とコミュニケーションがとれない事がコンプレックスだったり、オタク趣味を通してしか自己実現出来ない自分自身を「だめなやつ」と烙印づける傾向があることを知らなかったら、オタクの自意識を検出することも出来ぬまま、なんだか苛々した気持ちを持て余していたことだろう。しかし逆に、私自身がどこでファビョるのかを知ることが出来るならば、私は自分自身の心拍数上昇や気分の変動などを通して「あっ!観測装置シロクマがいつものやつで反応したぞ!ってことは、対象は同族かもしれないぞ!」という類推が可能になる。防衛機制は、知らない限りは目隠しだけれど、もしもそれを知ることが出来れば、メタ観察を通してある種のマーカーとしての役割を獲得する。少なくとも私はそう考えている。
 
 正式な精神分析において、いわゆる教育分析が極めて重要な位置づけをなされているのも、とりもなおさずこのせいだと、というのが私の理解だ。私がスーパービジョンを受けた期間はあまりにも短すぎたし、私自身が精神分析に精通しているかと言ったら全くNoなわけだけど、それでも私は何度となく上級医から「そのとき自分が何を思ったり感じたりしたのかを、書き留めておきなさい。それは重要な所見だから」と教わった。確かに、そうすることによって私は自分が何に反応しやすく何に鈍感なのかを少しづつ知ることが出来たし、今も知ろうと努力を続けている(これからも続けるだろう)。スーパーバイザーによる私自身の傾向への指摘や、私自身のメタ視点研鑽による自己分析は、自分自身の心的傾向を少しでも把握出来るようにする為に必須の修行と言えるし、自分自身の心的傾向を把握するということは即ち、自分自身を観測機器として用いるメタ視点にとっては「観測機器の精度をあげる」ことに直結している。
 
 観測機器たる「シロクマ自身の反応」に関して、どこで赤ランプがつくのか、どこで青ランプがつくのかを知らなければ、そもそも赤ランプの意味も青ランプの意味もわかりっこない、というわけだ。また、「何のランプもつかない」ということが何であるかも分からない。ここで、アンナ・フロイトの言葉を引用してみよう。
 

 真の精神分析家になりたいのなら、真実を愛する人になりなさい。
                          アンナ・フロイト

 私は別に真の精神分析家になれるとは思っていないけれども、私は私自身がどのような執着・防衛機制・欲望・葛藤を保有した人間なのかは、もっともっと知りたいと思っている。スーパーバイザーは、別に上級医に限らない。時には友人かもしれないし、時にはネット上の付き合いでみつかるかもしれない。はたまた、自分自身の分析がナイフのように葛藤をえぐり出すこともあるかもしれない。私は、そのような“気づき”に対して一定以上開かれていなければならないだろうし、そのような覚悟がなければ自分自身の防衛機制を観察機器として用いる人間として失格だと自戒している。他人はいざ知らず、私は私自身の防衛機制をメタ防衛するわけにはいかないし、そのような防衛をスーパーバイズしてくれる人を貴重なものと思う*3
 
 自分自身をろくすっぽ知らないで、自分自身の反応を参考に他人のことを観測するのは、自分の創りあげた顕微鏡のなんたるかを知らずに対象を観測するのと同じくらいリスキーなことだと思う。だから、自分自身の反応を参考に他人のことをメタ分析する人間は、自分が何者なのかをもっと知らなければならないと思うし、その為こそスーパーバイザーの存在が重要なんだろうと思う。私自身の防衛機制や心的傾向について指摘してくれるスーパーバイザーの存在は、自己分析だけでは届き得ない痛い所を突いてくれる。その痛みに耐えつつも、自分の輪郭をいっそう知ることこそが、昔も今も未来においても私には要請されている。
 
【2.観測の繰り返しによる帰納的・経験的蓄積】
 しかし、幾ら己を知ると言っても、実地で数をこなして経験を積まなければ観測は覚束ない。
 
 まず症例数をこなせばこなすほど、ある種の傾向を把握することが出来る、ということだ。1.に挙げたような自己分析を含みつつも、症例数を重ねることによって、どのような人にどのような心的傾向があるのかを確認することが出来る。勿論、「自分がどんな人のどんな言動に鋭敏に反応するのか」や、「どんな言動に鈍感なのか」もである。
 
 症例、などというとご大層な物言いだけど、実際には臨床現場以外にもありとあらゆる人間とのコミュニケーションの機会が私には研鑽の場として立ち上がってくる。オタクの自意識を巡る問題に限定しても、沢山のオタクと沢山出会い触れ合いしていくことが、すべて私にとっては経験の一里塚なのであり、私が極めてオフ会志向・ブログ志向な一因として「オタクを知り己を知る為の大切な場だから」ということが挙げられる。本だけ読んでいても駄目だと思う私は、秋葉原に、新宿東口交番前に、kanoseさんのオフ会に、出没するだろう。またオンラインゲームで遊び、ブログでやりとりし、あわよくば一緒に酒を呑もうとするだろう*4コミュニケートした症例数やオタク知己の数もまた、私自身のメタ分析を支える大切な要素だと考えている。だが、まだまだ経験が足りない。私はもっともっと、現場に出てじかにコミュニケートしたいと思う。
 
 言い換えれば、症例数をこなすことによって、私は「AさんとBさんとCさんの比較が可能になる」ことが期待できる。私自身が痛いオタクに対して投影を発動して同族嫌悪を催すにしても、程度の軽重や頻度の大小というのは観察対象によってまちまちだったりする。よって、「私自身が最も防衛機制を働かせるのはどんな状況で、逆にどんな状況ならセーフなのか」に関する経験を蓄積させていけば、どういう人物が一番私自身に強いreactionを持たせるのかについても分かるようになってくる。そして、どんな見た目・どんな挙動の人物が、私自身に強いreactionを惹起しやすい言動をとるのかについても類推が利きやすくなっていく、というわけである。やがて、完璧ではないにせよ*5、「ああ、こいつは俺の自意識を刺激しそうだな」ということが数分程度で読み取れるようになってくるし、私はそういう形で自分のセンサーを研磨することが大好きな人種なのだろう。このようなセンサー磨きを重ねて十余年。私はねオタク自意識の検出においてそこらの人間よりは検出精度が高いんじゃないかな、という自負は持っているつもりだ(勿論、それは私自身が検出に際して投影という機序を用いるであろうという心的傾向を背負っていると認めたうえで成立する自負ではあるが)。ざっと十人ほどがいた時、誰が一番自意識をhobbyから備給せざるを得ないかを一位から順番に並べるのは(大雑把なレベルにおいては)それほど難しいことではないし、対人コミュニケーションを生業としている人達なら大抵は心得ている。コミュニケーションのアンテナ感度の高い人にとって、この水準の把握は決して困難なことではないらしく、同業者以外の人間で抜群の感度を持っている人を私は何人も何人も挙げることができる。
 
【3.同じ人間を長期間観察することも有用】
 数をこなすだけが能じゃない。一人一人のオタクなり友人なりと、継続的なやりとりを行うこともやはり有用だろう。“対象の言動に対してどのようなリアクションを返すと、対象はどのように行動するのか”、を繰り返し試行-観察することは、対象の心的傾向を知る大きなチャンスであり、私のなかのメタ視点はある種のトライアンドエラーを続けることが出来る(敢えていやらしい表現をするなら、データを集めることが出来る)。私はベタな友人関係・親子関係・男女関係においてすら、このメタデータ集めをやめることが出来ないし、一生やめることが無いだろう。対象-自己の間主観的関係下における継続的データ収集は、私自身の心的傾向を知るうえのみならず、どういった人のどういった防衛機制に際して、どういった引き出し方があるのかを知悉する手がかりを与えてくれるものと、考えている*6
 
【4.アップデートの精神】
 自分自身を知り、自分自身の反応を通して対象を知る。そして帰納的・経験的観測を通して精度をあげていくという作業は、“対象を完璧に理解する”という実現不可能の無限遠への果てしない旅でもある。しかし、この作業を怠ったとたんに私は自分自身の防衛機制の正当化を再開してしまうだろうし、対象の世代や文化圏の陳腐化についていけなくなってしまうだろう。
 
 あと何年それが可能なのかは分からないが、私は自分自身と対象と間主観的関係に関する諸々をアップデートし続けなければならない。それが出来なくなった時が、私の終わりの時であり、自分自身の反応を用いたメタ観測法が発展しなくなった臨界点というやつなのだろう。だがさしあたり、努力は続けなければならない。時代も、自分も、対象も数限りなく移ろいゆくことを忘れて研鑽を怠れば、私はすぐにだめになるだろう。いや、精一杯頑張っても完璧にはほど遠いし、実際私は十代のオタク趣味愛好家達のことを知らなすぎることに強い危惧を覚えている。
 
【5.「幾ら目を磨こうとも、この方法に完璧という文字は無い」、という制約】
 しかし、これらのやり方をご覧頂ければ分かるとおり、このメソッドはどう考えても「リトマス試験紙のように分かりやすく完璧なもの」ではあり得ない。自分自身の(防衛機制などの)反応傾向を把握すると言っても限界があるし、スーパーバイザーとて完璧な人間では無い。症例数を稼ぐと言っても、多分私はまだ千例を幾らか越える程度しか経験していないし、この職業の人間のなかでは間違いなく若輩者の部類に入る。そのうえ、精神分析が専門というわけではない、ときたもんだ。運用は慎重に、一定の限定のもとで行うのが筋だろう。
 
 それに、防衛機制と捉えられる反応が全くの偶然から起こるものであるケースもきっとあり得ることにも留意しなければならないし、防衛機制云々以前に、新石器時代から引き継いだ行動遺伝学的傾向を誤読している可能性もあるかもしれない(もちろんこの誤読が怖いからこそ、私は行動遺伝学や進化心理学を一定以上勉強し続けておきたいなぁと思っているわけだ)。自己分析やスーパービジョンも大切だし、コミュニケーションの質・量の経験も重要だけれども、実は最も重要なのは「この方法は必ずしも常に完璧とはいかないどころか、有意水準p<0.05を満たすことさえ困難だ」という留保なのかもしれない。勿論、私はこの方法論にかなりの信頼を置いているし、幾らかマシな精度でコミュニケーション対象の心的傾向を類推している(そして過去はともかく、現在ではそのデータをコミュニケーションを一層円滑化する為に活用している)とは思うけれど、方法論としても研鑽レベルとしても完璧なものではない点をよく弁えつつ、活用していければいいのかな、と思っている。
 

3.自分のうちに内在しないものは私には理解出来ないか、遅々としてしか理解できない

 
 以上のように、私は対象を直接観察して理解するというよりも、対象に対する自分自身の防衛機制等を観察してメタ視点から観測を行う、という理解の手法をとっているっぽい。私は、自分自身が直接に対象を観測する方法を知るよしもないけれども、コミュニケーション状況下において、 [対象−私自身]を通して自分がどんな反応をしたのかや、相手がどんな反応をしたのかを観測し蓄積させることによって、帰納的に近似解を求めようとはしている。“完璧な理解”なるものを期待する人にとって、この方法は近似的な対象理解でしかないけれど、実地のコミュニケーションや臨床においては、近似的なものであれ工学的に利用出来る範囲においてはやはり有用だとは思う。私は、この方法論を研磨していきたい。それはcrow_henmiさんが指摘する通り、私の主観を介した観察方法には違いないけれども、それをもって「全く信用してはいけない」などという極論に走るつもりは今のところありません。私の方法は不完全には違いないし、そもそも“観察対象の完全なる理解”などというものは如来や神以外には無縁の代物だと思う一方で、さしあたりコミュニケーションにおいて工学的に利用する近似解をはじき出す算盤としては、“天気予報程度には”信頼してもいいんじゃないかと思っています*7。そして、精度をあげる為の営為は無意味なものではない、とも私は考えています。
 
 ちょっとおまけとして、この方法と関連したことで気になることを。
 突き詰めて考えていった時、「理解とは、理解を起動する何かが自分自身のなかに既に内在していないと進まないのではないか?」という疑問が私にはあります。その最も極端な例が投影なり観測者の逆転移なりなんだろうけれど、逆に己のなかに微塵も内在しない概念を前にした時、果たして人は理解が可能なのか疑問を感じてしまいます。例えば自分自身の概念を越えた書物と出会った時、もし理解が可能なんだとしても、己のなかに内在するものと符合する部分から、徐々にゆっくりと理解が進んでいくんじゃないかな、と考えることがあります。同族嫌悪のように、内在するものが豊富な場合には電光石火で近似的理解なり反応なりが起こるけれども、内在するものが乏しかったり皆無だったりする場合、近似的理解の接点というものはどのようにして起こるのか、私には分かりません。
 
 しかしながら、現時点で私がやたらと強く反応してしまうもの・情動を刺激されるものと出会う時、私は自分のなかに(それがなにかはともかくとして)反応してしまう負因・要素が存在している、ということまではあまり疑っていません。だとすれば、私は自分が何に反応しているのかを知りたいと思いますし、自分を反応させるものが何なのかを把握したいとも思います。そして何より、対象と自分との間でどのような御縁・化学反応・関係性・影響が起こるのかを凝視していきたいとは思っています。私は私自身の本当のことも、ありのままの他人も知り得ないでしょうけれど、私と相手との間で起こる諸々の現象にはアプローチ出来るのではないか、とは思うわけなのです。
 

*1:または、低い可能性かもしれないが、私よりもそれらに対する防衛を要請する度合いが強く、メタ視点を持つことが出来ないからこそ「見抜くわけにはいかない」という可能性も、ある

*2:この、分析者は被分析者を映し出すまっさらなスクリーンとして期待出来るか否かについては、私のような若輩者にはついていけないほどの議論と視点が呈示されているけれども、ここでは省略することとする。いうまでもなく私はどちらかというと「まっさらなスクリーンはボダのように極端な心性を持った人が相手でない限りは近似すら困難」という意見を持っていることは申し添えておく

*3:しかし、誰彼かまわずスーパーバイザーとして認知するわけにはいかない。じゃあ誰の意見を参考にして「自分の心的傾向を把握する一助」とするかについては別テキストにて

*4:この点において、自分以上に様々なオタと質・時間ともにコミュニケートしている精神科医を今のところはまだ知らない。だから私は、「現時点では、自分以上に隠れオタをマーキング出来る精神科医は世の中にはいない」と自惚れることをさしあたり自分自身に許しておこう、と思う。

*5:80〜90%ぐらい?

*6:いや、これは実際には精神科医や臨床心理士以外の人も知らないうちにやっていることだ

*7:哲学者や理論家にとって、この近似解が満足のいくものかどうかはこの際問いません