シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人格表象の統合的把握を妨げる匿名空間の性質と、それによって誘導される人格形成上の問題及びコミュニケーション上の問題に関する懸念

 

 匿名者は、良いことをしたとしても無名のままで、酷いことをしたとしてもやはり無名のままだ。彼らは第三者から弁別可能な人格も表象も獲得されないので、応報戦略も通じないし、相手を貶め返すことも出来ない。匿名投稿者は何らかの人格・ハンドルネーム表象を纏って捉えられないため、人と人との関係性の蓄積を期待できる存在ではない。この点、コミュニケーションの対象として匿名者は(目の前にいる他者、と比較した場合にだが)不完全な存在として現われる。個々の発言に対して罵倒や釣りや賞賛を行うことはできるけれども、私は匿名者*1個人に対して何らかの人格表象を獲得することが出来ない。
 
 この匿名性のメリットとデメリットに関しては、様々の意見や視点があるだろうし、これまでにも多くの人達によって十分に討議されてきたわけだけれども、この、人格表象を捉えられない・蓄積できないことに関連するであろう、或る危惧について考えてみたい。願わくは、誰かがトラックバックを通して以下の考えを補ってくれたり、過去のテキストを紹介してくれたりすることを祈る。
 
・発言者の背景にある文脈は常に把握されない、というより読む側には無いものとして取り扱われる
 匿名発言者とて実際はひとりひとりの人間なので、性格傾向・生活史・ここ最近の状況・価値観などといったコンテキストを背景にもっていることが推測される。発言者のコンテキストというものは、同一のハンドルネームを使い続けていたり、地域社会で実際に顔をいつもあわせていたりすれば読み取りやすく、それが理解の拡張と誤解のリスクを招いたりする(しかし、基本的には前者の可能性に私は期待している)わけだけれども、匿名発言者においてはそれが期し難い。このことは、例えば防衛機制を逆撫でするような攻撃・罵倒に対して防御力が高まる一方で、コンテキストを読んだうえで文意を汲み取る可能性を低いものにしてしまっている。匿名発言者の発言は、あくまで発言の断片そのものだけであり、ディスプレイの向こう側に本来存在するであろうパーソナリティと、それにまつわる文脈をコミュニケーションの連なりから類推することが出来ない。もし、顕名であれば、発言Aと発言Bと発言Cを連関させたうえで(コミュニケーションのたびに随時変化していく)発言者の表象を構築し、そのうえで何らかの関係性というものを発言者-読者の間に構築していくことが可能だが、匿名者とのやりとりでは関係性は構築されない。なぜなら、全ての匿名発言は連関することもなく関係性構築も不可能なまま、それぞれが単体で浮遊し続けるしかないからだ。
 
・関係性が構築されないので、対象も自分も、人格的統合がコミュニケーションの場で期待し得ない。
 匿名性や発言の一回性ゆえに、2chのような匿名空間ではコミュニケーションに際しての関係性が構築・蓄積されないわけだけれども、これは書き手−読み手の双方にいえる現象で、匿名発言の読み手側には、書き手側に関するパーソナリティ表象というものがいつまで経っても形成されないし、また同時に匿名発言の書き手側のほうも個々の発言に連関した人格的統合を要請されることなく発言を垂れ流すことが出来る。この、お互い様的な相乗効果によって、2ch上においては、発言者も閲覧者も、コミュニケーションに際してお互いがお互いの人格的コンテキストや人格的表象をイメージすることが必要とされないし、そもそもが極めて困難になっている。個々人は自他両方の人格的表象を意識することもなければ要請すらされないまま、自己の断片とでも言うべき匿名発言をただただ飛び交わせている。
 
 この現象は、2ch内だけでコミュニケーションを行う人(または、2ch的匿名空間において不特定多数と断片的コミュニケーションを行う人)に対して、パーソナリティの安定性・凝集性に関して一定の制限をもたらすものではないかと私は懸念している。断片化された発言を行い、断片化された発言を好いたり嫌ったりするという状況のなかで、果たして人は統合的な人格を維持することが出来るのだろうか?総体としての個人を認知されるわけでもなく、ただただ自己の断片とでも言うべき発言を肯定されたり否定されたりし続け、逆に他人の自己の断片とでもいうべき発言を肯定したり否定したりしている状況下において、人は、「清濁併せ持った自分自身の統合」とか「清濁併せ持った他者表象の統合」を達成できるのだろうか?good imageな発言を肯定し肯定され、bad imageな発言を否定し否定するという営為のなかで、清濁併せ持ったパーソナリティを内に構築し、外に許容するメンタリティは育ち得るだろうか?
 
 2ch的匿名空間、そしてその類似的延長線上として捉えられる不特定多数との断片的コミュニケーション空間(言うまでも無く、一期一会的で個々人がアイデンティファイされない現代都市空間のコミュニケーションシーンというものはすぐれて匿名的な代物である)において、清濁併せ持ったパーソナリティの相互構築または相互統合・許容といったものは(少なくともそうでない空間に比べて)困難なものではないだろうか?と私は疑う。匿名空間においては、{good imageな他者発言/bad imageな他者発言}{褒められる書き込み/貶される書き込み}のspiliting(分裂)を妨げるものは何も無く、言動の人格的凝集や人格表象の形成も進行しない(自分の内のレベルにおいても他者表彰のレベルにおいても)。
 
 ※もしかすると、あまりにも長期間2ch的匿名空間で匿名的やりとりだけをやっていると、上に書いたようなことがあまりにも板につきすぎてしまい、ディスプレイの前に座っているほうのリアル人物のパーソナリティ構造にすら影響が出るかもしれないけれども、それを裏付ける確認がとれないので留保とする。現時点では「2chのやりすぎが人格の断片化をうながす」という疑いよりも、そもそも2chがここまで許容された背景として、社会全体の広く薄い傾向としての断片化が進行しつつある、という線をこそ私は気にしている。
 

・個人のパーソナリティは構築されず、パーソナリティ表象も認知されない代わりに、スレッド(掲示板)に表象が生み出される 
 匿名発言者個々人は、自らに対しても他の発言者に対しても、清濁併せ持った統合的人格的イメージを獲得することがなく、ただただ断片化した個々の良い発言を褒めあい、断片化した悪い発言を貶したりし続ける。褒められたり貶されたりするのは個々の発言であり、特定の誰か(の表象)ではない。その代わりと言っては何だが、それぞれのスレッド(掲示板)にはある程度の表象が形成される傾向は、強い。その表象は、内部発言者個々の積み重ねによって堆積・変容していく。例えば定期的に荒らしが沸くスレには「荒れるスレ」という共通認識が培われ、引き継がれていく。もっと複雑な「スレ内の微妙な暗黙の了解」とて、大抵のスレッドで見受けられるものである。スレッド内部の匿名発言者達はいつまで経っても匿名的で非人格的だが、それらの集合体としてのスレッドには1000発言分の断片が蓄積するなかで、人格とはいえないにしても、常連匿名発言者達がコンセンサスとして持ちえるような、何らかの表象は次第に形成されていく。
 
 よく言われる「スレの空気読め」というやつは、個々人の匿名発言者の人格は断片化しているものの、スレッド自体には一定の表象が形成されてそれが常連匿名発言者達によって共有されている、という2ch的現象を示していると思う。スレッドに限らず、一般企業であれ同人サークルであれ、コミュニティが内部の人間に共有され得る一定の表象を形成すること自体は珍しくもなんともないが、匿名性や一回発言性が強ければ強いほど、そして個々人の人格の断片化が強ければ強いほど、そのコミュニティ表象が果たす役割は相対的に大きくなるのではないだろうか、とは疑う。そして、コミュニティ表彰が匿名空間内部の人間の自意識を引き受けざるを得ない度合いも大きくなるのではないだろうか。スレ住人の個々人は、自らの匿名発言や他者の匿名発言にアイデンティティを持ち続けたり人格を認識し続けたりすることはないものの、スレッドそのものの「空気」を認識し続けることは出来るし、その「空気」から一定のコンテキストを獲得し続けることも可能だ。“隣の美容院の○○ちゃん”でもなければ“○○さんのブログ”でもなく、(niftyserve風に言えば)“○○さんや××さんが所属しているフォーラム”でもなく、“俺らのスレッドはこんな空気。読めない奴ぁ八つ裂きだ!”といったところだろうか。スレッドの空気は、内部における発言の蓄積によって徐々に変容してはいくものの、急激には変化することもなく、空気を読まなすぎる発言に対しては(そのスレの空気を共有する匿名者達から)強い反応が惹起されることとなる。
 
 
・2ch的匿名空間の社会的広がり、または2chが支持される下地の醸成について
 こんな具合に、2chの匿名空間においては、人格は内に対しても外に対してもいつまでも凝集すること無く、各々の自己が吐き出した断片的発言が個々にgood/badなものとして捉えられる。そこでは、「個々人の人格に対する統合性」「清濁併せ持った実際上の個々の人格に対する認識も許容」にアプローチすることは困難である。それいりも、個々の良い発言と個々の悪い発言に対してのspilitingこそが促進される。代わりにと言っては何だが、スレッドそのものはそれら断片的発言の蓄積がみられ、その蓄積に応じた表象が形成され、スレ住民に共有される。こうして形成される「スレッドの空気」は、一度共有されると一定の強度を獲得し、空気はスレッド内部の発言の累積によって徐々に変容はしていくにせよ、極端に空気を読まない発言に対しては攻撃が為される。
 
 もちろん、これは2chの一つ一つのスレッドだけに適用できる考え方ではない。匿名性の強いコミュニケーション空間・一回性の強いコミュニケーション空間において、good image/bad imageは一つの人格に対し統合的に捉えられることはやはり少ないだろうし、ましてそんな空間で小さい頃から過ごしている人にとってはなかなか困難なことだろう。実際の人間は完璧に悪い奴でも完璧に良い奴でもないわけだけれども、人格の断片化が不可避な2chのような匿名空間や、そこまではいかないにしても匿名性が高い現代都市空間においては、パーソナリティの内的/外的統合は非常に進行しづらいものではないか、と思う*2。穿った見方をするなら、2chがここまで隆盛を極めネットのライトユーザーや年配者も含めて広く受け入れられるようになったのも、2chの匿名性の故ではなく、都市空間のコミュニケーションシーンがすでに十分匿名的・一回性的で、断片的コミュニケーションが一般化しているが故のことなのかもしれない。2chが生み出した社会病理というよりも、社会病理が2chのような純正匿名空間が支持される背景を形成した、という可能性。こういった匿名空間(匿名傾向の強い空間)においては、個々人の人格的統合性などというものは希薄になる一方で、ただ、スレッドなりコミュニティなりに関する表象(即ち“空気”)が濃密になっていくばかりである。
 
 別に、それはそれで構わないじゃないか、という人もいるかもしれないが、私個人はこうした現象の進行を憂慮する。本来人間は、匿名空間の断片化された発言と違い、good imageまたはbad imageのどちらかに分離できるものではなく、清濁交じり合った、不完全で、良いところも悪いところもある、移ろい行く存在である筈だ。だけれども、そういった等身大のパーソナリティ表象を(自分に対しても他者に対しても)丸抱えするキャパシティが伸びなかったり退化したりした人というのは、果たして、家族や親子といった情緒的繋がりを維持・形成することが出来るのだろうか?「一生独身で、職場では仕事の話しかせず、友達とは萌えアニメの話しかせず、親兄弟とはいがみあうことしかしない」という人なら、別にそれでも構いはしない。しかし、男女交際や親子関係、それも継続的関係のなかにおいて、お互いのパーソナリティに存する清濁併せ持ったイメージを統合できず、good imageだけを肯定・支持するような傾向があるとしたら、長期的に安定した関係を形成することなど到底出来ないのではないか?と私は危惧している。そして、2chというネット上の現象だけならそれほどでもないにせよ、こういった傾向が匿名的現代都市空間全体に少しづつではあるが広がってきていることを憂慮する。個々人の人格的統合が起こりにくい社会的/空間的構造が進行し、それに伴って社会病理が広まりをみせた時、家族というものは、男女関係というものは(或いは友人関係というものは)どうなってしまうのだろうか?既に、何年も前からその兆候は既に現れているようにみえるし、近年進行している幾つかの社会的傾向は、私の危惧を支持しているようにみえる。ある個人・対象に対し、good imageには礼賛を、bad imageには罵倒を行うことに、私達はあまりにも慣れすぎてしまっている。例えば、完璧な自分・全部駄目な自分・理想的な彼女・最低の肉便器…こんな具合に、である。そして小は過疎スレッドから、大は国家レベルまで、清濁が統合されないまま、ああだこうだ言いながらも濃厚な空気を吸い慣れてしまっている。
 
 私は2chそのものにはあまり危惧を覚えないけれども、2chが広く受け入れられた背景としての社会病理、そしてその社会病理を促進させそうな匿名的空間に対しては強い疑念を持っている。それらは、人間の人格形成や、長期的コミュニケーションの成立に大きな影を落とし、個人の適応に対しても社会の在り様に対しても甚大な影響を与えつつあるのではないだろうか。
 
 どうかこの推測が、愚かな私の勘違いや杞憂の類でありますように。
 

*1:トリップがついていれば話は少し変わってくるかもしれないが

*2:勿論、そのような統合なしでも現代都市空間においてはとりあえず生きていくことが、出来る。