シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

進化生物学者と似非科学論者との決定的な違いに関して

 
科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由
 
 上のエントリを読んだ私は、素人目にもあまりにもひどいと思ってしまい、一応知っている範囲で進化生物学を弁護したいという気持ちになった。似非科学者達と真面目な学者達が一緒にされているのはあんまりだという心持ちにもなった。しかしやぶへびかもしれない。なぜなら、この記事はあまりにも釣り臭すぎるからだ。しかし、愚直に突っ込みを入れることにしよう。トラバ先の文章には、それこそ数え切れないほどの突っ込みどころがあるわけだけど、今回は三つのポイントを選んで反論を試み、最後にまとめてみた。残りの突っ込みどころは、はてなカラスの皆さん、宜しくお願いします。
 

【上の進化論批判に関して、そりゃないよと言いたい所幾つか】
1.遺伝子の近縁性に関する研究が無視されている
 
 特定の酵素や蛋白をリリースする遺伝子の多形性を追いかけることによって生物間の近縁度を(相対的にせよ)測定する研究手法が、最近たくさん使われるようになっている。世の中には、どう変異しようとも大体ちゃんと機能し、突然変異をきたす割合が年数あたりほぼ一定で、しかも殆どの生物種が保有しているという面白い蛋白質が存在していたりする(分子時計)。例えば60万年に一文字の割合で変化するフィブリノペプタイドという蛋白は、60万年に一度の割合で変異し、しかも変異が生物の生存の帰趨にはあまり関係しないため、これを相互に測定することによって哺乳類生物間の系統樹的距離を推定することが出来る。オポッサムとリビアヤマネコとライオンのフィブリノペプタイドを比較して相違の程度を測定すれば、リビアヤマネコがオポッサムに近い祖先から分化したのか、それともライオンに近い祖先から分化したのか、間接的ながらも重要な所見が得られる、というわけだ。*1女系遺伝することが知られている、ヒトのミトコンドリアDNAの遺伝的解析でも似たようなことできる。ミトコンドリアDNAが人種間でどれぐらい違うのかを測定することを通して、アメリカインディアンのルーツにアプローチしている研究者もいるようだ。彼らは自分たちの演算結果にまだまだ懐疑的ではあるものの、「今のところ最も確からしい」所見をかき集めるべく、頑張ってはいる。
 

しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。

 確かに、今の段階で学校の授業に取り入れるのは早計なのかもしれない。とはいっても「結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全」という主張には首をかしげておきたい。まともな学者さん達は、疑いながら疑いながら、直接的/間接的なエビデンスが集まらないか模索している最中なわけで、全肯定/全否定どちらもしてないんじゃないかと思う。そして、遺伝子工学は間接的ながらも、種の多様性に関する証拠を集めてくれている。進化論を否定して別の考えを持っている人達は、他の理由を頑張って集めているのかな?かな?
 
 絶滅種の存在という難問を抱えているうえに、かつて社会ダーウィニズムという大失敗をしでかしている進化論者のプロの皆さんは、かなり慎重に証拠集めをやっているほうだと、私には思える*2。少なくとも、医学界隈などよりは慎重なんじゃないかと疑っている。進化論界隈はラディカルな仮説が次から次へと出てきているのでなかにはトンデモな仮説も多く含まれているかもしれないけれど、進化論が学問としてそれなりに機能している証左として、各仮説については後日当人または他の学者が修正してくれているという点には注目しておきたい。進化論者は沢山の見当違いな仮説を提出し、それに振り回されることもあるだろうが、そうしたプロセスを累積させて一個一個検証と仮説を繰り返しながら、なるべく確からしい方向へと進んでいるように、みえる。
 

2.種としては同質だったり近縁だったりしても、形態は幾らでも違う場合があり得る(ダーウィンフィンチの拡散の例、など)ことを無視している 
 

進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
時代ごとに明確に異なる形の生物が存在したのは事実である。

 いや、だったらそれがなんだっていうんですか。
 
 化石の多様性の存在は、先に挙げた分子時計の話とは全く関係が無いし、化石がいかに多様であったとしても、4億年前のA層から出る魚類化石と、2億年前のB層から出る魚類化石を形態学的に比較検討することはやはり可能だ。例えば有名なところを挙げるなら、魚類の脊柱の形成・発達に関する比較や、鰓の構造の比較あたりだろうか。エンゼルフィッシュとマグロとネコザメを比較して、「うわぁ形が多様だぁ困ったなぁ」だけでは何も話が進まないけれど、エンゼルフィッシュとマグロのほうが体構造が似てるなと着目したとき(そして鯛がエンゼルフィッシュにより近い体構造を持ち、イトマキエイがネコザメに近い体構造を持っていることを振り返った時)、多種多様な標本を整理し形態学的に分類しはじめることが可能になる。シャチの骨格とイクチオサウルスの骨格を比較しても、そこで「どっちも魚みたいだね」で終わってしまえばおしまいだが、前腕−体幹の骨の接続形態を比較すれば、シャチの骨格はイクチオサウルスの骨格よりむしろ人間の骨格に近い事に気づくことが出来る。また逆に、イクチオサウルスの骨格はむしろトカゲやプテラノドンに近い事に気づくことも出来る。こうした形態学的着眼もまた、進化系統樹を支持する間接的な証拠とはいえ、日夜研究が蓄積されているわけで、むしろ多様すぎるほどの魚類化石・爬虫類化石などのなかに一貫した部分や違っている部分を見出して整理することが出来るからこそ、形態学的な分類手法は今も死んでいない、と私は考える。形態学的な分類手法は、現在の遺伝子工学と同じ程度には進化論にとって不完全な武器かもしれないが、出来るだけ不備を補うように沢山の人が議論と研究を蓄積させていることは認めてもいいんじゃないかと思う。そしてそういった蓄積は、参加者ひとりひとりが仮にが間違っても間違いが検証され得て、学問そのものは前進できるような構図をとっていると思う。
 

3.種の形態の変化が(進化の歴史のなかでは)一瞬で起こる可能性を無視している 

猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。

 種の壁が化石などで検出されないことについて、このような記述がある。そうですかそうですか。
 
 ミッシングリンク(または種の隔絶性)に関しても、生態ニッチさえ異なれば(性淘汰・自然淘汰に基づいて)種の形質は速やかに変化し得ることに思いを馳せれば、決定的な否定材料とはなり得ない、と私は考える。ここでも例を挙げてみる。イギリスの工業地帯に住んでいたもともと白かった蛾*3は、公害が悪化して煤まみれの街になると、黒い個体ばかりに変化した。遺伝的にはそう大きく違わず、交配可能な同種とはいえ、色に関して劇的な変化を遂げたそうな。話はそれで終わらず、公害対策が進歩し、街が煤煙から開放されると、黒い蛾たちまちいなくなり白い蛾になっちゃった、というからびっくりだ。この蛾のように、環境ニッチが変化すれば生物の形質は短時間に変化し得るもののようだ。別に突然変異の数は少なくったって構わない...鎌状赤血球症の変な形の赤血球が、第11番染色体β鎖のたった一ヶ所の変異で発生する如く、たった一つの塩基配列の違いでさえ、形態・機能の劇的な変化をもたらすことはあり得る*4。火山の爆発などで環境が激変したり、極端に隔絶した環境に置かれた生物種にはそれまでと異なったルールの淘汰圧がかかり、工業都市の蛾の如く、異なるルール下に適応した生物種へと急速に淘汰されていく。しかも、その為に必要な突然変異の回数や塩基配列の相違は、もしかしたら僅か数個の相違でも構わないかもしれない、となれば尚更だ。件の蛾には、ミッシングリンクの間を埋めるような灰色の蛾は存在していない。
 
 ショウジョウバエや大腸菌あたりを人為的に二つのニッチに隔絶し、それぞれのニッチにおいて種が特化していく有様を前向き研究で確かめたという話を、私はあまり知らない(でも絶対に誰かがきっとやっていそうだ。情報希望)。とはいえ、それほど永い世代を経ないでも種の形態・行動が変化し得るという点に関しては、穀物や家畜の品種改良を見て貰えば一目瞭然だし、その議論の延長線上として、十分永く隔絶されている群同士が遺伝的交配性を次第に失っていく可能性が模索されるのはまぁ不思議ではない流れだろう。哺乳類は長命なので、節足動物や軟体動物に比べれば世代の累積に時間がかかるだろうけれど、万〜億単位の進化の流れのなかでは基本的には同じなんじゃないかな、とも思う。
 
 ミッシングリンクという指摘は、「生存環境のニッチが変化すると速やかに個体の性質が変化する」ことや、point mutationの影響が時に甚大であることを考えれば、必ずしも進化論を否定する材料とはなりえない。少なくともミッシングリンクの存在を論拠として遺伝的進化の可能性を否定することは出来ない、と私は考える。なぜなら、

1.形態や機能というレベルに関する限り、たった一つの遺伝的変化が個体の在り様を決定的に変えてしまうことは幾らでもあり得て、
2.平時において生存不能なpoint mutation個体でさえ、新しく出来た環境(例えば火山の噴火でカルデラ湖が出来て環境が激変した、など)ではもしかして最適に繁茂するかもしれず、だとしたら進化というよりもむしろ淘汰は瞬間的に行われるかもしれない

 
 という可能性があるからである。ミッシングリンクを論拠に進化論を否定する人達の頭の中には、もしかして「形態や機能の相違は、遺伝的な相違に比例する」という先入観があるんじゃないだろうか。勿論、これは先入観以外の何者でもない。然るべき環境の変化と、ほんの僅かの突然変異があれば、生物はびっくりするほど様態を変化させる可能性がある。こ大きなニッチ変化と、幾ばくかの変異さえあれば淘汰が発生し得ると考えるなら、化石Aと化石Bの間の形態をもった化石Xが存在しないことは別段あり得る話のように思えてならず、ミッシングリンクを進化論否定のネタにしようと思う人は、そこの所にも反撃する必要があるんじゃないだろうか。
 

【以上、三点挙げてみましたが、決定的に違うのは対象と向き合う際の姿勢だと思う。】
 
 他にも突っ込みどころや指摘したいところは多々あるけれども、とりあえず三つの問題点を指摘してみた。
 
 不完全で間接的ながらも、遺伝子工学や形態学は一定の有効性を議論に提供し続けているし、歩みは遅くとも着実に蓄積を重ねていっている。全く議論不能として匙を投げるのは早計ではないだろうか。個々の仮説が後で間違いだと指摘されることは勿論あり得るが、その繰り返しのなかで、学問そのものは進歩していく可能性を、進化論もまた持っているんじゃないだろうか。また、ミッシングリンクのような「種の壁」問題に関しても、進化論を否定する材料として弱いのではないだろうか。ミッシングリンクという突っ込みに対して、進化論者達は着実に反撃の準備を進めてきている。確かに、進化生物学は常に十分に疑ってかからなければならないし、不確かな部分の多いジグソーパズルだというのには同意する。けれども、このエントリの進化論否定には真正面から反論してみたくなる点がありすぎるのでやってみた。
 
 しかし、こうした勘違いにも増して最も気に入らない点は、あのエントリの断定口調と思考停止、これである。正しいか正しくないか・合っているか違っているか。進化論に×印をつけて思考をやめてしまうその態度は、それこそまるで似非科学のようじゃないか。まともなプロ進化論者達は、上のエントリの断定口調とは対照的に、断定できないところは断定せず、現在の観測結果で言い得る精一杯のところまでしか言わない。少なくとも仮説レベルを超えようとする時には、そのあたりにデリケートにやっている、ようにみえる。分からない所は分からないとしつつ、分かりそうな範囲で出来る限り最善を尽くし、間違いがみつかったら考えを改めて次の研究に移る、そういった終わりなき彼らの態度と蓄積こそが科学的な態度というやつではないだろうか。そして、学会内外からの意見に対して開かれていることを通して、そういった科学的態度に一定の担保を確保することが開明的な態度ではないだろうか。
 
 そりゃもちろん、進化生物学は観測手段や観測技術の面で前途多難な学問だというのは承知しておかなければならない。しかも、あの学問はどうみてもまだ半熟以下の段階にしか到達していない。だが、いかに観測手段が乏しかろうとも、断定を避け、分かる範囲で議論を進め、大胆な仮説には検証を繰り返す、これが科学的手法というものだと思う。分からないものに留保を置きつつ仮説と検証を繰り返す限りにおいては、進化生物学は科学的であり、医学すら十分科学的であり得ると私は思う。逆に、無機化学やニュートン力学のような、比較的範囲が限定されて系の内部での観測が容易な分野であっても、断定的で、議論を避け、検証も反省も蓄積させない方法論は科学の名に値するのだろうか。水の結晶の話やゲーム脳の話などはまさにそうだけど、正しい正しくない・合っている間違っているという決め付けと思考停止をこそ、私は危惧したい。それは多分、非科学的な手法だと思う。
 
 或る人物が科学的手法を用いているか否かは、その人物の観測方法の強弱や観測対象の遠近といった次元で決定されるものではない。その人の考察姿勢・発展可能性・議論への開かれ方などに依るものだということを私は強調しておきたいし、この点に関する限り、まともな進化生物学者達の奮闘とゲーム脳やら水の結晶やらの何某との間には決定的な違いがあると強調しておきたい。前者は仮に今誤っても後日より確からしい方向へと修正・蓄積していく可能性が常に開かれているが、後者にはそういった可能性は閉じられている。
 
 ※私みたいな素人がこんな事言ってもアレです、ここは是非、プロの方、もっとうまいこと説明してやってください。
 
【参考になりそうなものいくつか】
[分子時計について]biomolecular_clock.html
[生物の分類について]生物の分類 - Wikipedia
[鎌状赤血球症について]AMDA(アムダ) - 救える命があればどこへでも
[イギリス工業地帯の蛾の話]http://econ.keio.ac.jp/staff/hosoda/lecture/Lecture-note.pdf
(イギリス工業地帯の蛾の話のリンク先pdfは、読み物としてもかなり面白いので暇な人は読んでみるといいかもしれない。なお、蛾の話は16ページあたりに載っている)
[釣られ仲間1]http://anond.hatelabo.jp/20061227042214
[釣られ仲間2]REVの日記 @はてな
[釣られ仲間3]2006-12-27 - ドレッシングのような

【この辺りに関連した面白い本のお勧め】

遺伝子の川 (サイエンス・マスターズ)

遺伝子の川 (サイエンス・マスターズ)

「進化」大全

「進化」大全

 

*1:これは確率論的/期待値観測的な手法なので、完全な手段ではないと反論することは可能だろう。しかし、この分子時計にあたる遺伝子は、2500万年に一文字変異するやつとか、5万年で一文字変異するやつとか、様々なスケールがあるので、期待値の観測で十分近似出来るようなスケールの分子時計で比較評価すれば近似に伴う問題も解決できる、かもしれない。とはいえ、突然変異確率が時代によって異なるかもしれない、という問題は依然として残ってはいる

*2:彼らの慎重な態度のひとつとして、宗教や哲学や政治の諸分野の人々の根強く強烈な攻撃の存在も関係しているかもしれない。進化論に対する過剰なまでの攻撃は、もしかすると進化論者達にとって幸運なものかもしれない。鍛えられずにはいられないからだ。

*3:オオシモフリエダシャク

*4:進化生物学に関してよく抱かれる誤解のひとつに、形態・行動が大きく変化している以上は遺伝的にも大きく隔絶している筈だ、というものがある。遺伝的隔絶性が小さくても形態・行動が滅茶苦茶違う生物は多々存在する点に留意しなければならない。ただし、そんな生物でも心房心室の構造だとか発生学上の鰓列の構造といった変化しにくい部分も存在していて、だからこそ形態学的な比較検討の着眼対象になりやすい部分もある