よく、偉い人は自由化自由化という。価格の低下をもたらし、選択可能性次第ではどこまでも下克上出来る自由の世界。ああ、自由化万歳。この自由化という言葉は、古来、お金持ちや頭の良い人達の寵愛を一身に受けて、ありがたいものとして流通してきた。
でも、よく考えると、自由化、とりわけ市場原理や淘汰の働く分野における自由化とは、弱肉強食の原理が働く方向へのシフトでもあったりする。或る次元において自由化が起こると、金銭の分野であれ、繁殖行動の分野であれ、種の競合という場面であれ*1強い者は益々強く、弱い者は益々弱くなる、という自由化とパラレルに進行する事態...つまり弱肉強食が進行するであろう可能性が高いわけだが、この点に関しては自由化論者達はだんまりを決め込んでいる。万が一もしも、彼らが根っからの卑怯者で、「弱肉強食大いに結構、どうせ食うのは俺様で、食われるのはリソースの無い連中なんだし。頬被りを続けて、搾取し続けようぜw」、ぐらいにしか思っていないうえで弱肉強食を隠蔽しているんだとしたら、これは本当に惨たらしいことだ。また或いは、自由化と弱肉強食が同時進行になりやすいという事に目が届かないんだとしたら、本当に愚かなことだ。自由化というオブラートに包みながら、弱肉強食を積極的に推進しようとするピラニアどもが跋扈する娑婆世界。そして、グローバリゼーションだの何だのといった言葉で代表される諸自由化は、どうあれピラニアどもにとっては有頂天の世界に違いない、ということは出来るだけ把握しておこうとは思う。
自由化がグローバルに進行する世界というのは、ブラックバスが食い、ライオンが食い、タナゴが食われ、ニホンタンポポが絶滅危惧種になるような弱肉強食の世界であり、グローバルでボーダレスであるが故に、アマゾン原生林の如き多様性のキープしにくい状況である(これは、個人の活動というレベルにおいても、遺伝的文化的ミームというレベルにおいてもいえそうなことだ)。だが、そんな自明のことに苛立っていては娑婆では神経が持たないだろうから、仕方の無いこととして諦観するしかあるまい。とはいえ、自由化を進言している人が弱肉強食を隠蔽しながら、牙を研いでいる光景を想像するのは、やはりあまり気持ちの良いものではなく、苛立たずにはいられないのだ*2。