シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私の言動は、私にとって常に最適である。

 
 私の言動は私にとって常に最適なものである、おそらくは。
 
 なぜなら、その時点における私の言動は、私自身の随意下/または無意識下において最上最適と判断されたものに相違ないからである。判断の中枢が脳内のどこであれ、私の言動が実行に移されるその瞬間において、私の言動は私自身の適応的意義を最大化させるべく企図されて選択されている、と言えるからだ。一見すると私自身に何のメリットも感じられないような選択肢でさえ、そこには心的メリット・防衛機制上の要請・性淘汰や自然淘汰に合致するような何らかのメリット*1、が隠れていると私は確信する。もしも自分自身の行動が最適ではないと意識される場合においては、おそらく、メリットや適応的意義は防衛機制などの無意識下の機構によってマスクされているのだ、と類推しておくのが無難ではないだろうか。
 
 なお、この例外として第一に挙げられるのは、精神機能に異常を来している場合――特に器質的な障害が想定される統合失調症やアルツハイマー型認知症などの疾患や、薬物の使用に伴う機能上の障害――だろう。これらの疾患や状態においては、行動の最適化はダイレクトに障害されるか、障害による異常事態を少しでも軽減させる為の二次的な対処行動(そのなかには、ひょっとすると一部の幻聴や妄想すら、含まれ得るのかもしれない)によって修飾される。
 
 もちろん、最適として選択された私の行動が不幸な結果や失敗を招くことはあるかもしれない。だが、注意を喚起しておこう。もし、もっと良い選択肢が存在したんだとしても当時の私には選びようが無かったものには違いなく、環境因子やこれまでの因業を考慮に入れる時、私が選び得る選択肢は常に限られているのだ、という事を。
 
 幸いなことに、どのような選択であれどのような失敗であれ、私は私の最適の為すままに行う&行わざるを得ないため、私は常にベストを尽くして結果を獲得する。つまり私は最適に成功したり最適に失敗する。私の言動は、射程距離の長短の差こそあれ、常に私自身の適応を最大化する意図に則って遂行されるため、私は最適に失敗し、最適に後悔し、最適に成功し、最適に凱旋することが出来る。
 
 私は「常に適応を最大化する意図のもとに行動する」、と考えるが故に、常に最適の最前線に立つことが出来るし、事実、立っている。
 

*1:そして「性淘汰や自然淘汰に合致するメリット」というものは、生物個体としての私自身には脳内麻薬を、私の保有する遺伝子には生存可能性を、与えるものであろう