シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

これから式場の下見に行ってきますが

 
 http://icanthelphatingsex.g.hatena.ne.jp/noon75/20061120/p4
 
 全四回にもわたって丁寧なお返事を頂き、恐縮しています。ありがとうございました。
 
 幸せというものがフィクションである、というご見解は僕にも納得のいくものでした。幸せの定義は人によってまちまちとはいえ、世間一般で流通するところの「幸せ」という言葉のニュアンスには、「長期間に渡って執着するところのものが満たされる状態」という含意があるように思えます。執着の対象は、金であったり、美女との性行為であったり、“僕が僕らしくあること”であったり、人間関係における過不足無いポジションであったり、はたまた渾身の作品を創造することであったりするんでしょう。しかし幸せを維持するということは、それらを持続的に(それどころか時には拡張的に)保ち続けることを要請する筈で、移ろいゆく娑婆世界において極めて困難、というよりも絶対に不可能なものであることを第一に自覚しなければならないと思っています*1。刹那の喜怒哀楽なら、フィクションではなく実現可能な対象として取り扱って実現にこぎ着けるでしょうけれど、持続的な「幸せ」を思いこみ続けるには、一般的な手法ではまず無理なのではないかと思っています。
 
 例えば“妻を幸せにする”ことも、それは無限遠のフィクションに向けての行軍になるのでしょう。男達も女達もは(加齢も含め)一所には留まらず、子どもの絶え間ない変化が予測不能因子として加わるという現実のなかで、同じことを繰り返してさえいれば「幸せ」が維持されると思いこむのは楽観的に過ぎません。なら、「妻が任意の瞬間に望むことと大きく逸れないようにすればいいじゃないか」という寄り添い戦略なら有効と言う人もいるかもしれませんが、その場合も、まず妻と自分自身との気質・価値観・執着が相性良くなければ達成困難でしょうし、妻と自分とが色々犠牲を捧げあってようやく達成可能になる*2ことに思いを馳せなければならないでしょう。しかも、妻の言いなりに成りすぎてもいけない筈――妻が夫を自由に操作出来ると自覚するような流れは、袋小路に至る道でしょう――なので、綱引きの綱を引っ張る手はそれなりに繊細でなければなりませんし、完璧な繊細さは人間には望み得ないものです。更に家族やら仕事やらのしがらみがまとわりつくわけですから、人為的にすべてを制御し尽くす・知り尽くすことは形而下の人間には不可能です。
 
 また、妻と二人で色々なものを犠牲に捧げ合ってウサギ小屋に暮らすということは、ある種の摩耗と鈍感さを人為的に*3こしらえ、引き受けることを要請する筈です。どれほどウマの合うパートナーを見つけたとて、犠牲無しで進んでいくことは不可避です。だとすれば、作家的感性を維持することが「幸せ」に直結する人達にとって、「幸せ」持続的な結婚なんてとてもあり得ないような気がします。作家的感性にやすりをかけなければウサギ小屋の雌兎と上手くいかず、しかも作家的感性を手放したくないという人にとって、結婚生活とは正反対の方向に逃げる二兎を追いかける選択のように思えます。ウサギ小屋運営の為に、感性にヤスリをかけたり鉛のシートを覆い被せたりした作家さんは、果たしてなおもエッジの利いた作品を生産し続けることが出来るでしょうか?そんな自分をどんな風に振り返るのでしょうか?途方もない芸術家がしばしば独身を貫くか長続きしない結婚や愛人関係を繰り返すのも、なんだか分かるような気がします。
 
 なお、noon75さんにおかれてはご承知のことと思いますが、「じゃあパートナーとの幸せな結婚生活の維持・向上にこそ作家性を見出す人なら大丈夫ではないか」という質問にも、明確にNOと言うことが出来ると思います。そのような作家性を持って結婚に臨む人にとっての“幸せな結婚”こそが、最もフィクション的でありシミュラークル的なわけで、彼/彼女のフィクションに添ったプログラムを共演させられるパートナーは、遅かれ早かれ(相手の空想で出来た)透明な檻に閉じこめられている事に気付くでしょう。この場合「君の思う通りにやっていいんだ」「君を幸せにしてあげたいんだ」という提言は足枷の呪詛であり、「思い通りにやって幸せにならなければならない」という圧迫感がパートナーを責め苛むことでしょう。まして、“思い通りにやって良い”ということが執着の飽くなき拡大に繋がりやすいというリスクに鈍感なカップル*4の場合、執着無間地獄に落ちるというリスクも併せて侵さなければなりません。
 
 こうやって考えていくと、結婚してカップルが幸せを持続するという事は、極めて困難なことのようにしか私には思えません。一時的な満足を得たり、刹那的に自己満足が重なり合う瞬間を創り出す事は容易でも、人々が幸せというフィクションに期待するところの、「長期間に渡って執着するところのものが満たされる状態」を維持することは殆ど不可能ですし、それを全力で何とかしようとか考えたって出来るわけがありません(そして全力で何とかしよう、という執着が強いだけでも、その人は無間地獄に落ちるでしょう)。世間一般の「幸せ」というフィクションに拘泥するという行為は、カラハリ砂漠に水を蒔き続ければいつか砂漠が無くなるだろうと考えるのと同じくらい道理に逆らった行為だと思っています*5。そんな蜃気楼を追いかけることは、結婚しようがしまいが回避するのがおりこうだと僕は考えます。
 
 僕はまもなく結婚することになっています。今日も式場の下見に出かけるつもりですが、結婚に「幸せ」を求めることは出来うる限り回避したいと考えています。とはいえ結婚などという難儀な選択肢を選ぶことも、結局は漏れ出る諸執着に由来するわけで、その限りにおいて落胆や絶望の萌芽から逃げきれません。一方、僕は自分が凡庸な人間である、少なくとも凡庸な人間とそう変わらない行動遺伝学的特徴を持った雄であると推定しているので、凡庸な人生の諸先輩が創りあげてきた世間智から大きく外れないほうが執着の制御が容易なのだろう、とは推定しています。少なくとも僕の場合、結婚せず家族も持たずに生きていくことは、それはそれで(おそらく五十代以降に)相応の渇望を惹起すると予測されるので、結婚という名のコストとリスクを払ってでもその渇望を回避出来やしないか、という企みが結婚には含まれています。勿論、因縁の流れが偶々結婚に向かっているからそれに逆らわずに乗るんだ、という側面もありますが、僕にとっての結婚は、どこへ行っても不満足と不幸に充ち満ちた娑婆世界のなかで、僕なりに折り合いを付ける為の大がかりな方便としての側面も持ち合わせているわけです。これは、長期的な適応の賭けです。僕の長期的執着妥協予測がどこまで当たっているのかは不明ですが、さしあたり現在の手持ちの見識の命ずるまま、命の蝋燭を“少しでも餓鬼道から遠ざかるように”賭けていくしかありません。その参考書として、世間智・仏教的視点・学問が少しでも役立てば良いのですが(おそらく、情念の前にはそれほどの役には立たないのでしょう)。
 
 僕は一人だと寂しいと言い始める癖に二人だと鬱陶しいと言い始める、業の深い雄です。一人でいても寂しいし、結婚しても「幸せ」なんてあり得ない。しかし、いついかなる時も、僕は「自分の執着と現実との乖離が長期的にみて少しでも少なくなるように」精一杯のあがきを繰り広げる所存です。そのあがき方や適応ドクトリンはnoon75さんのソレとは大きく異なるようですが、さしあたり僕は僕なりに、自分の生き筋を死力を尽くして模索していくほかありませんし、その為にも出来る限り娑婆を知り、人を知り、自分を知り、適応を究めたいと思っています*6。どんなにあがいてもお釈迦様の智慧には届きませんが、しかし一匹の雄猿として、出来うる限りの舞踏をお釈迦様の掌の上で踊り続けたいし、もし望まなくても常に自動的に踊り続けてしまう、というのが僕の捉え方ということになります。その適応舞踏がどの程度的確な選択肢だったかは事後的にすら確認出来ませんが、そんな事を気にしていても仕方が無いので踊り続けます。
 
【追記】
 また、noon75さんにおかれましても、noon75さんなりの(自動的な、または意図的な)適応舞踏が際限なく繰り広げられているものと推定していますし、「幸せ」に執着した挙げ句に別れ別れになっていくカップルでさえも、任意の時点ではそれぞれが最善と(自動的に、または意図的に)した選択を選び続けていると僕は捉えます。「人間の任意の時点の行動は、すべて(自動的に、または意図的に)その時点で個体が最善とした選択を選んでいる、ただしその選択が愚かなものか賢明なものなのかは定かではなく、智慧の射程距離・因縁などによって異なる結果に至る」という前提で考えます。この考え方に則る限り、1.どこまで娑婆を直視できているのか・2.(目隠しとして作動しがちな)防衛機制をいかに少なくするのかは、個人の適応や幸不幸を推定するうえで避けては通れない議論になる筈です。なかんずく、フィクション・ファンタジー・ナルシスティックな映し鏡ばかりみて娑婆の道理から目を逸らすことに夢中な人達は、娑婆の道理に足をとられて沈むリスクが高いことでしょう。
 

*1:例外?ゲーテやピカソぐらいの人の場合は??

*2:しかも、これは十分条件ではなく必要条件でしかない筈です

*3:“幸福な”人の場合は意識しないままに

*4:そしてそのような鈍感さから僕達が逃れることもなかなか困難です

*5:カラハリ砂漠を喩えに出したのは、カラハリ砂漠が砂漠である要因として海の寒流の存在が大きいから

*6:これ自体が一つの執着ですけれど。