シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

いじめる側のメリットが大きくコストが少ない限り、いじめ発生は不可避だろう

 
 いじめについて色々な事がネットで書かれているのをみると、「誰が悪い奴か」「不可避なことか否か」「いじめられた側/いじめる側はどうすべきか」について書かれているものが多い。また、いじめの多発する現状を異常事態と騒ぐ人も多いようだ。しかし、「いじめの機能を解剖」してみようとか「いじめを通していじめる側が獲得するメリット/コスト」について書かれたテキストは数があまり多くない。
 
 確かにいじめは憂うべき事態なのは分かるけど、ここまで全国津々浦々の中学校に蔓延している以上、いじめを非機能的異常現象として捉えることはもはや適切ではないだろう。私が中学生だった十数年前以来、いじめの構造はほぼ一貫して思春期前期〜中期の学校に存在していたと思う*1。現代の思春期の子にとって、実はいじめは「機能的なもの」で「個人の適応を促進させるもの」で「抑止力が働かない限り必然的にエスカレートするもの」ではないだろうか?いじめられる対象を選別し、玩具のように弄び、金銭を巻き上げ、めたくそにしてしまう「いじめ」という現象を減少させようと思う人は、まず、いじめが現代の子ども達にとってどのような適応促進的メリットを持っているのか、また逆にいじめる事によるコストがどのような状況下で上昇するのかにもっと着眼すべきではないだろうか?
 
 以下に、私は「いじめ」に伴うメリット、少なくともいじめの現場にいる子ども達にとって適応促進的な幾つかの効能について挙げてみる。また、「いじめ」をやることによってどの程度の損失が発生し得るのかについても列挙してみる。もし、これらのバランスシートが「いじめたほうが個人の適応を促進しやすい」時には、いじめの発生確率は上昇するし、現在の中学校では十分に上昇しているが故にいじめが恒常的なものとなっている、と私は推測する。
 

いじめる側にとって、いじめを行うメリットや、適応的意義

 
 ・金銭や物質の獲得
 いじめの主導者達(おそらく暴力をそれなりに身につけ、校内において政治的に不利を蒙りにくい人物)は、いじめを行うことによって被害者から金銭や物質を巻き上げることが出来る。古くからカツアゲの類はDQN系の男子によって行われていたが、特定の被害者が定まった場合は安定した供給を得ることが出来る。彼らは、被害者が十分に金ヅルである限りにおいては、また搾取を阻害する要因がない限りは、金銭や物質を搾取する。
 
 ・クラス内において自分達がボス集団であることの誇示
 思春期男子にとって、ボス集団であることの誇示は後述するように幾つものメリットをもたらすものと私は考える。そしていじめの首謀集団として振舞うことは、(その方法が暴力的なものか、政治的采配によるものかはともかくとして)さしあたり彼らをしてボス集団たらしめる。「俺達に逆らった奴らはああなるんだぞ」という無言のメッセージは、いじめ首謀者−被害者のラインの辺縁にいるクラスメート達への影響力を獲得するうえで有効な方法ではある。学校の先生の指導などよりよほど実行力のある私刑が眼前にチラつくとき、たじろがないクラスメートはそう多くはない。いじめを起こすことによって、いじめ首謀集団はクラス内でボス猿の地位を獲得することが出来る点を再確認しておく。*2
 
 ・クラス内における幾つかの便宜の獲得
 金銭の獲得が困難であったとしても、クラス内における幾つかの便宜を獲得することが可能になる。いじめ当人を使いっぱしりにするだけでなく、傍観者的ポジションにいる人達にも影響力を行使しやすくなるのがおいしい。容赦の無いいじめデモンストレーションを行うことで、いじめ首謀者集団はクラス内において強い政治的アドバンテージを獲得することが出来るわけだが、とりもなおさずこのようなアドバンテージには実際上の利便性がついてまわる。
 
 ・優越感の獲得(心理的メリット) 
 いうまでもなく、クラス内において逆らう者の無い専制政治を敷くことは、ボス猿たるいじめ首謀者集団にとって大きな優越感をもたらす。おそらくだが、第二次性徴以降の思春期男性の行動遺伝学的特徴には、「社会的に認められると心地良い」ようなデザインが含まれていると私は推定している*3。故に、いじめによってクラス内に強い発言力と影響力を獲得し、畏怖されるに至った暴君達は、そのステータス自体を心地よいものとして楽しむことが出来る。
 
 ・女の子からの視線
 自信に満ち、暴君とはいえクラス内において最も有力なポジションにいることは、いじめシステムに罪悪感をあまり感じないような女性に好意的な視線を向けられる可能性を増大させるかもしれない。少なくとも、いじめられる側が女の子を惹きつけるという事はありえず、こういう場合にはいじめ首謀者側のほうが女の子に評価されやすい。女の子は暴力沙汰を嫌う子が多いので、すべての女の子を惹きつけることは出来ないにせよ、十分にDQNな娘にとっては、暴力と政治性を顕現させる人物は頼りになりそうな人物にうつることだろう(ましてや、金品を見せ付けたりしていようものなら尚更)。
 
 留意すべきは、こうしたいじめを主導できるいじめっ子が極単純な暴力馬鹿ではない点である。学校側からの(今では無きに等しくなっている)圧力・クラス内のパワーバランス・社会的コンテキストなどを本能的に嗅ぎ分けている彼らは、政治的にも他者配慮的にも実は意外と有能である点に注意しなければならない。いじめられて家でネトゲしかできない子に比べた時、いじめを主導できる人間達は、暴力・脅し・譲歩・政治的判断なども含めた効率的な対人コミュニケーションを実行可能な人物で、女子側もそこら辺の高性能さをおそらく嗅ぎとっている点に注意。
 

 ...これらのメリットを考えてみる限りにおいては、いじめられた子が転校しようが自殺しようが、いじめる側がいじめをやめる理由は見当たらない。いじめを行う人間は、いじめる事によって少なくともこの程度のメリットを享受することが出来る。思春期中学校という名の「蝿の王」的閉鎖空間のなかで、いじめシステムを形成してボス猿になれる程度の能力を持っている者は、後述するデメリットが十分に存在しない限りはいじめを遂行すると私は確信する。なお、このような旨味がある以上、いじめ首謀者数名をクラスから排除してもあまりいじめを抑止する効果は期待できず、ボス猿の下で機会を伺っていた予備群が台頭する可能性が高い。
 

いじめ構造の安定化に寄与する因子

 
・自分がいじめに遭いたくないと思う人達の気持ち 
 いったんクラス内のヒエラルキーと政治的ムードが確定し、いじめ首謀者が被害者を執拗にいじめる構図ができあがったとき、いじめられない他のクラスメートは沈黙を余儀なくされるか消極的にいじめに参加することを強要される。いじめ首謀者達を掣肘するものが無い中学校において、いじめ首謀者達に敵視されるような振る舞いは極めて危険である。下手をするといじめの標的にされかねない。個人の適応を守ろうと思うクラスメートは、いじめられる側を支援しようと思ったら大きなコストを支払わなければならず、おそらくは回避しようとするだろう。いったんいじめ構造が出来上がってしまった後は、各個人の「俺/私は助かりたい!絶対にあんな目に遭いたくない!」という思いが、いじめ構造をさらに安定化させ、いじめられる側に救命いかだを投げることを躊躇させることになる。少なくとも、面倒に巻き込まれたくないと思う程度の消極性を持ったクラスメートなら、わざわざコスト可能性を冒してまで救命いかだを投げようとはすまい。
 
 また、いじめを主導する側は、救命いかだを投げるクラスメートに(余程手強い相手でないならば)制裁を加えるだろう。それはいじめ主導者側の利益を害する行為であり、いじめ主導者側の政治的プレゼンスへの挑戦ともみなされるものなので、相応の抵抗に遭遇する可能性が高い。また、抵抗者へのみせしめは、蝿の王的コミュニティにおいては極めて有効な手法である点にも注目。「生贄を交代させても」首謀者側はいっこうに構わないのだし。
 
・敵の明確化といじめの正当化
 しっかり醸成したいじめシステムの場合、いじめ首謀者(とその強い影響下にあるクラスメート)はいじめられる側の何らかの属性にかこつけて被害者をクラスの敵として明確化し、いじめが正当化されるような構造ができあがることもある。理解されにくい言動の者・臭い者・みてくれの悪い者・クラス内で主流を占める価値観に迎合しない者、などなどの属性は、「クラスの敵」「いじめても構わない奴」としての焼印を押すのにさぞ好都合だろう。こうした何らかの属性を被害者が持っている場合には、「いじめられても仕方の無い奴」という空気が醸成されやすく、そうなるといじめへのブレーキは非常に弱いものとなってしまう。
 

いじめる側にとって、いじめを行うデメリットや、適応的意義の損失

 
・親に怒られる
 現在の子どもは、別に他人の子どもをいじめたとしてもあまり親に怒られない。もっと控えめに表現するなら、他所の子をいじめても怒らない親が増えている、という表現になるだろうか。親はいじめっ子が誰をどういじめているのか知ろうとも思わないし、知ったからといって何かをやろうとも思わないだろう(親自身のモラルの問題もさることながら、子ども側はいじめの残忍さを茶化してしか親に報告しない点に注意。または全く話そうともしない)。学校の先生から親御さんにいじめがあるという話が通達されたとしても、先生側には拘束力が全く無いし、そうでなくても先生よりも子どもの言うことを信じる親が増加している時代である。いじめを行うことで、親にげんこつを食らうリスクはいまやあまり存在しない。
 
 ちなみに、地域社会が地域社会然として機能していた頃には、地域行事等における子同士の振る舞いを通して親達も状況を把握する可能性が高かったのではないかと私は推測する。もしも子どもの間でいじめがあって極端にエスカレートしてしまった場合には、親同士の間で(ひいては地域内で)波風が立つ事を回避すべく相応の介入が行われるだろうし、子ども側もそうした介入可能性を承知していたことだろう。クラスの揉め事と地域の揉め事・子どもの揉め事と大人の揉め事の間には少なくとも現在以上の連続性があった筈で、いじめ首謀者・ガキ大将の権力が無限に増大することは困難だったか、大人側・コミュニティ側からの強い抵抗によって制御される可能性があったと思われる*4。だが、現在の学校においては、クラスの揉め事と地域の揉め事・子どもの揉め事と大人の揉め事の間には連続性は殆ど無いし、学区も広すぎる。地域の繋がりを通して親が介入してくる余地や意味は希薄になっていると考えざるを得ない。
 
・友達に嫌われる
 いじめを行うことによって、友人を失ったりクラス内の政治的ポジションを失ったりするなら、いじめを行う者は少なくなるだろう。だが不幸なことに、「こいつならいじめても誰にも嫌われない奴」、即ちクラス内において寄る辺無く、政治的に極めて弱い奴というのは必ずいるわけで、いじめても友達に嫌われないよう狡猾にターゲットを選択する分には、友人に嫌われるリスクを殆どゼロにすることができる(現実世界でいじめられている被害者も、いじめても政治的・交際的に不利益を蒙らないような人物が選ばれているように、みえる)。まして、いじめ首謀者同士の間柄は、いじめを通してさらに団結することすら可能だ。いじめによって友達を失うリスクは、率先していじめる側にはおそらく殆ど無いだろう。
 
・先生に叱られる
 果たして、昨今の中学校に「ガキにナメられない先生」なんているのだろうか?私が中学校の頃には、悪いことをした奴に敢然と向かって行って懲らしめてくれるおっかない先生がいて色々と抑止力になっていたが、今日日そんな先生がどれぐらいいるのか怪しいものだ。ちょっと殴ったぐらいで父兄のほうがキレてしまう時代・先生に尊敬ではなく疑いの目を向ける時代、先生がたは生徒と父兄の両方に怯えながらやっているぐらいではないだろうか?
 
 現在の学校の先生がいじめに対して行使可能な抑止力と権限は、殆ど無いと言ってよいだろう。「クラスで話し合い」「感想文を書かせる」などなどは、何かをやっているという体裁を繕うだけで、いじめシステムの解消には全く寄与しない*5。全治一ヶ月ぐらいの骨折を負わせる暴力事件がなかなか発生しにくく、自殺企図も因果関係が明確でないため、内申点を下げることも容易では無い。しかも、いじめる側はそこら辺を熟知したうえで内申に響くぎりぎりのラインをなぞるように陰湿且つ集団的にいじめるときている。よしんば内申点を下げることが可能になったとしても、今じゃ名前だけ書けば入学させてくれる高校が幾らでもあるので、決定的な打撃とはなり得ない。
 
・停学・退学にはならない
 あまりにも品行に問題がある場合、高校以降や私立であれば停学・退学という処置をとることができるが、公立中学には退学という制度は存在しない。停学・退学は安易にきられるべきカードでは無いにしても、見せ札としては一定の抑止力にはなるもの思われる。だが、公立中学校には停学・退学は存在しない。
 
 
 以上のように、いじめる側に大きなコストやデメリットを課していたであろう幾つかの機構は、現在殆ど麻痺状態になっている。かつて地域社会と学校が近しい存在だった頃、そして先生に一定の抑止権力が存在した頃には、いじめが極端にエスカレートした状況において大人が介入する余地が色々あったかもしれないが、今はそうではない。「蝿の王」的な中学校コミュニティにおいて発生したいじめを、大人達は把握することすら困難であり、そしていじめ首謀者達は陰湿な政治的プレゼンスを保持し続けることだろう。
 
 言うまでもないが、「蝿の王」的な中学校コミュニティにおいて、倫理観だの道徳性だのというものは方便以外の何者でもない。先生が倫理・道徳に訴えかけたところで、それらが可視的・具体的なメリットを伴うものでない限り、いじめる側はいじめによって入手出来る具体的メリットを決して手放さないだろう。もし、いじめる側が採用すべき倫理・道徳があるとしたら、それは大人達の空手形ではなく、むしろ自分達のいじめを正当化する為の権力装置としての倫理・道徳があるだけではないだろうか*6。大人達がお題目のように唱え続ける倫理・道徳など、蝿の王達によってせせら笑われることを避けられない。
 

いじめが被害者以外の当事者の適応にメリットを与えるとしたら

 
 人はメリットがあるからこそ行動する生き物であり、いじめもまた、いじめ首謀者にとってそれなりの旨味があり、リスクやコストが小さいからこそ発生するものと私は考える。とんぼの羽を引きちぎることに罪悪感を覚えない、悪知恵と腕力だけはいっぱしに身についた中学生達に、(大人達自身も方便だと思っているような)形骸化した倫理観・道徳観を期待したところで効果は無いし、いじめる側が狂っていると叫んでみたところで事態は変わらない。地域や大人社会との繋がりを失い、先生や学校側が抑止力として機能しない閉鎖空間のなか、「蝿の王」はこれからも何度と無く繰り返され、野蛮な暴君と哀れな犠牲者を生み出し続けるだろう。
 
 倫理性だの何だのを考える前に、まず、いじめる側のメリットや旨味について検討したほうがいいんじゃないだろうか。また、いじめ傍観者にとって介入がリスク・コストを伴うものであるかどうかも吟味すると良いんじゃないだろうか。いじめを抑止する方向に機能していたかもしれないものが現在どういう状態になっているのか再検討する必要もある。いじめる側のメリット−コストの現況はどうなのか?いじめシステムは固定化しやすいのか?外部/内部に抑止力は存在するのか?いじめという現象を巡るメリット・デメリット・促進因子・抑制因子のバランスと構造を検討し、いじめ首謀者達のメリットを最小化しコストを最大化するようなアプローチを可視的に為さない限り、おそらくいじめの発生とエスカレートを食い止めることは出来ない。いじめ首謀者がいじめを通して適応を向上させることが出来、しかも大したデメリットも蒙らずに済む現況。この現況の続く限り、中学校は「蝿の王」の無人島であり続ける筈だ。
 

*1:ただし、十数年前に比べてより一般化・常識化したきらいはあるかもしれない

*2:ところで、現代の公立中学校でいじめのような暴力的な手段以外でボス集団であることを保障する手段は他にあるのだろうか?

*3:なぜなら、文明の曙以前のホモ・サピエンスにとっては、社会的に認められるようなオスこそが子孫を残したであろうからである。文明以前と断りを入れてはおいたものの、実際には文明以後もその傾向は濃厚のように思える

*4:ただし、村八分の家の子は地域社会のまとまりの外に位置する為、フィードバックの対象外であり、従って当然のようにいじめられていただろう

*5:あのしらけた儀式って、いつ廃止するんだろうか。どうせいじめ当事者達は、大人達の体面繕いと欺瞞を看過している。多分、先生方もあの儀式の白々しさは自覚しているのだろうけど、体面を繕わなければ五月蝿い人もいるので、無効性と欺瞞を承知のうえでやっていらっしゃるのだろう

*6:もちろん、倫理・道徳・そして自由なる概念は、大人の世界においても多分に権力装置的だし、擦れた子ども達は中学校ぐらいまでにはその事に気づくのだ