シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

政治ゲームに敗退した医師達

 
 そういえば、私の尊敬する老年医師が“医者も、政治的なものの考え方を身につけておいたほうが良い”と口癖のように言っていた事を思い出した。
 
 http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2006/10/nhk.html
 
 この番組は私も視た。途中からだが。
 確信犯(誤用のほう)的なタレントの金切り声に象徴されるように、「論理的整合性」や「お行儀良さ」といったものはそもそもあの場では求められていなかった。あれは上品なディベートの場でもなければ、統計的有意差を求める場でもない。情動に訴えてもイエローカードをとられないような、相当に泥臭い政治ゲームの場だったわけである。件の番組の性質として、お上品なディベートが進行する可能性が低いという事を、出演医師達は事前にどこまで分かっていたのだろうか?日々の臨床に忙殺されるあまり、予習する暇が無かったのかもしれない。後半、ようやく“番組のルール”に気付いたのか、ジャーナリストの声を遮って発言する場面もみられたが、遅きに失した印象は否めない。
 
 あのような政治ゲームのなかで有効な振る舞いというのは、リンク先の方が幾つか具体例を挙げているような、相手を政治的に封殺しつつ自説を展開していくものだったと思う。クリエイティブなディベートを相互に展開する時の戦術と、相手を政治的に封殺して自説になびかせざるを得ない時の戦術は明らかに異なっている。後者は、視る側の感情に訴えかけることも辞さないようなor視る側のリテラシーに訴えかけて窒息させるような狡賢さを含んでいなければならない*1。少なくとも、今回の政治ゲームにおいてはそういうダーティーな戦術が不可欠だったと思う。政治ゲームのルールにおいては“政治的正当性”を確保できない奴こそが“政治的に正しくない”。声を荒げようが、野次を飛ばそうが、人品にもとろうが、そんなのは関係なく、問題になるのは“政治的に正しそう”にみえるかどうかだけである。論理的整合性・経済学的整合性・倫理学的正当性などすら、政治ゲームという次元においては目的ではなく手段でしかない。そこの所に、何故すぐに気付かなかったのか?アンテナの感度が、低かったのかな?
 
 【政治ゲームの敗因分析】
 
 例えば学会における正当性の追求*2と、メディアにおける正当性のアピールでは、目指すべき目標物も、用いるべき方法も大きく異なる。今回の番組で医師側が“敗退”した主たる要因も、結局そこに気付くのが遅かった&対応が不十分だったからだろう。“敗因”を要約してみるとしたら、
 
1.番組が孕む政治性に対する意識が希薄だった。少なくとも、気付くのが遅かった。
2.その際、おそらくだが、議論における論理的整合性やお行儀の良さに医師側は拘泥しすぎていた。
3.医師側以外のメンバー(少なくともジャーナリスト・メディア・役人)は、最初から政治ゲームとして強い意識を持って、ゲームをコントロールしていた。
 

 といった辺りになるのだろうか。
 確かに、医師の発言を封殺しやすいプログラムだったかもしれない一方で、議題が生死や病苦といった情動に訴えやすいジャンルである以上は、観衆の情動をコントロールしたり、(実は情動の奴隷でしかない)リテラシーを突っついたりして善戦する余地も多かった筈だ。あるいは反論に際しての政治的コストや情動的抵抗感をもっと大きくする余地もあった筈だ。私個人は医師側の主張はそれなりに現場を踏まえた意見だと思っているが、どうあれ彼らは、政治的には明確に敗退した。厚生労働省の役人が良好な政治的ポジションを貫いたのと対照的に。
 
 【師の教えに従って今日もアンテナ磨き】
 
 なお、私は師から、「生身の人間は、論理的整合性によって動くのではなく、時には暴力すら含めた政治的・権力的ゲームの帰趨によってなびく。」と教わった。臨床に際しても、政治的アンテナが鈍感過ぎるが故に治療が届かないことがあるぞと注意された。例えばどれほど良い治療法を知っていたとしても、患者さんとその家族の納得を獲得しなければ治療を受けて貰えまい。また、患者さん自身が治療に積極的でも家族全員が治療に反対している場合も、そのまま放っておけば間違いなく治療は頓挫してしまうだろう。
 
 こういった、政治的にややこしい状況に対応するには、医師にはある種の政治的センスが不可欠だというのが師の教えだった。確かに、細胞レベル・臓器レベルの問題は論理的整合性やエビデンスに沿って解決していくべきで、医師という人種はそういう事に長けた人種に違いない。だが、患者さんや家族は医師と同じようには考えちゃくれない*3し、彼らは細胞や臓器のように“エビデンスに添うかたちで反応”してくれるわけでもない。疾病を抱える主体者たる患者さん&その家族は、論理的整合性やエビデンス以外の様々な情報・情動にも影響を受ける存在で、澄ました顔で「医学的に正しいですから」とお題目を唱えていれば動いてくれる存在ではない。幾ら適切な治療薬を処方したとて、コミュニケーションの場面で不適切な齟齬があれば、患者さんは内服してくれないわけで、結果として治療は進まない。
 
 医師がコミュニケーションを行う際、政治的センスが問われるのは何もメディアに露出する時に限ったものではない。患者さんやその家族が医学的正当性だけに従って判断するとは限らないわけで。内に医学的エビデンスに依りつつも、外には政治的に“納得できる”ように配慮していくことが、治療を提供するうえで有効な戦術なのではないか、と私は思う。政治ゲームに終始しているだけで医学そのものの研鑽を怠る者は論外としても、コミュニケーションにおいて政治的センスを無視した医者は、臨床的にも色々と苦労するんじゃないかなぁとは思う。
 

*1:余程おかしい事を言わない限り、論理的整合性を顕示出来るかどうかは二の次だ

*2:実際は、学会も多分に政治ゲームの色彩を帯びているわけだが、一応対比として学会を挙げてみる。

*3:また、判断の基準にすべき医学的蓄積にも乏しい。