シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

だけども自由を志向できない

 
 それでも自由を志向したい - fujixeの日記
 
 リスペクトに値するご意見です。一定以上の廉恥心と知性を持った方は皆一様にそう仰りますし、事実そのような人達は自由度が高ければ高いほど、適切に自由を運用出来るんでしょう。ああ、養豚場の豚よりも、不満足なソクラテス。掛け値なしに素晴らしいことです。fujixeさんの個人的決意に対し、自由に憧れる一個人としては共感を覚えるところです。
 
 ですが、そういう人達だけで地球が回っているわけじゃないという点にこそ、頭のいい人はもっともっと注目すべきだと思うんですよ。“高水準な人々”の理想論も良いものですが、理想に追随出来ない人達を直視するところから、理想に至る遠大な路がはじまるんじゃないかと僕は思うんです。
 
 不満足なソクラテスと養豚場の豚とどちらを選ぶかって時、娑婆の人間ってのは(結果として)大半が後者を選んでしまうんじゃないでしょうか?もし、「ソクラテス」「豚」って立て看板があるなら、まぁ豚呼ばわりされるのを避ける為にみんなソクラテス側の選択肢を選ぶかもしれません。「豚」を選んだら、村のなかで一生豚呼ばわりされるかもしれませんからね。でも、「ソクラテス」「豚」という立て看板がついていない分かれ道だったとしたら?とりあえず大勢の人は、より楽で得な選択肢を選ぶのが自然でしょう。勿論、その先が屠殺場に繋がっていると認識出来る限りにおいては、誰も「豚」を選ばない。けれど、未来をまなざす射程距離の届かない範囲においては、人は容易に、知らないうちに、養豚場や屠殺場への選択肢を選ぶのではないでしょうか?欲得こそが、極めてしばしば不自由へのショートカットだという洞察を置き去りにしたまんまに。
 
 もしも選択肢の自由度が得られたとしても、十分な判断力・情報収集力・未来を見通す射程距離といったものが無い人の場合、結局は慾に絡め取られた挙げ句、養豚場や屠殺場に一歩一歩歩んでいくんじゃないでしょうか?自由を取り扱える度合いの低い奴から順番に、慾に溺れてババを引く。そういう(賢い人達からみておそらく)“低次元”な状況にある人達にとっての自由って何なんでしょうか?そして、そういう“低次元”に位置する人達は、自由を欲するのでしょうか?
 
 いや、どんな人であっても、それでも自由を欲するのが人間というものなんでしょう*1。さもしさと愚かさの果てに絡みつかれるリスクを見つめないまま、とりあえず自由を欲する。いや、自由に執着する。自由度があがればあがるほど、自由に耐える為のスペックが高くなっていくというのに…。“自由への執着という名の、ホモ・サピエンス的限界への挑戦”は、これは本来、ヒロイズムに酔いながら語るべきことではなく、悲壮感をもって語られるべきことだと個人的には思っています。スペックの足りない人から、自由に耐えきれずに脱落していくという残酷さを敢えて直視せず、自由でありたいと執着し続ける娑婆の人間達。背後には、高利貸しに絡め取られた“自由人”やら、児童虐待を繰り返す“自由人”やら、そういうのが一杯転がっているっていうのに…。自由度が高い状況というのは結局そういう状況で、自由度を生かせる個人が浮いて、自由度を生かせない個人が溺れる、そういう酷薄な一面を持ち合わせている。わかりやすい専制君主は確かにいませんが、各人のスペックと自由度とのギャップが専制君主の代わりを務めて奴隷にむち打つ状況なんじゃないかと僕は思うんです。
 
 だから僕は、制限付きで自由を欲することを企みたいと思ってます。自分のスペックと執着を越えない範囲で、なおかつ専制君主なり横柄な法律なりの縛りの小さい、制限付きの自由なんて最高でしょうね。望まれるべき制限付き自由の範囲は、各人の哲学と賢さによって様々でしょうし、場合によっては、猫の額ほどの自由の範囲が丁度良いという人すらいるかもしれません。『自分のスペックと執着を越えない範囲でのみ、人は自由なるものに耐えられる』という能力的制約を、“自由なことはよいことだ”と思う人達がどう取り扱うのか、僕は興味があります。
 
 ときに自由は、不自由よりも残酷です――とりわけ耐自由スペックに乏しい人達にとっては不可避の残酷さです。自由度の高さは自主的転落確率の上昇と比例するものと僕は確信しています。id:fujixeさんは、個人的に自由を望みました。それはいいことだと思います。個人の及ぶ限界ぎりぎりのところまで精一杯自由の空気と戦ってください。僕も、僕なりに個人的格闘は続けていくつもりです。ですが僕はチキンの故に(または適応至上的したたかさの故に)、痴を吹き出しそうな危なさを覚えた時点で不自由に向かって逃走するつもりです。
 
【蛇足、まさに蛇の足】
 そういや、世の中には時々、(fujixeさんとは異なって)闇雲に万人に高い自由度を勧める人がいて、そういう人達はどういう神経してるのかなと疑いたくなることってありませんか?「あんたはそんなに無邪気に自由を勧めるけど、あんたよりも自由に耐えられない人は、高利貸しに喰われて死ねって感じ?」、みたいな。でも、自由至上主義者さん達は悪い人ではなさそうなので、「馬鹿な人から順番に、高利貸しに喰われながら自由のヒロイズムに溺れて死んでください」などという邪悪な事を考えているとも思えません。おそらく彼らの大半は、自分の耐自由スペックを基準に人間全体の耐自由スペックを考えちゃったりしていて、だから無邪気な理想論を唱えていらっしゃるだけなのでしょう。ですが、これは耐自由弱者にとっては相当に惨たらしい無邪気さですね☆ その惨たらしさと切り捨てっぷりを承知しながらも、彼ら*2がなおも自由を提唱するんだとしたら、それって一体どんな議論になるのでしょうか?きっと、過去に頭のいい人が何かしら議論しているとは思うんですが、不勉強故に僕はその辺を知りません。誰か何かご存じですか?「人間全員、耐えられない阿呆から痴を吹き出して失血死すればいいのさ」的なドツボを避けつつ大衆と自由について騙った語った偉人をご存じの方がいらっしゃったら、教えていただけると嬉しいです。
 

*1:人間は、本質的に束縛を嫌うように出来ているんでしょうか。

*2:それも、彼らのなかでも上玉の彼ら