シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

地域コミュニティが消失し、流動性と自由度の高い社会が訪れた果てについて

 
“村の掟”が不要な人/必要な人の明暗 - シロクマの屑籠
 
 上のテキストで私は、“村の掟”“村のマナー”による不自由な(行動・判断・マナー)枠付けによって、むしろ適応が維持されていたかもしれない人々について指摘してみたわけだ。社会による一定の枠付けによって自由を一定の制限下に置いたほうが適応できる人、それどころか枠付けがなければ欲望のまま迷走してしまう人がいるのではないか、というわけである。
 
 こういう考え方は、個人の自由を最大限に尊重する人達や、人間は十分な機会・教育を与えられれば自由を適切に使いこなして前進出来ると考える人達からみれば、きわめて保守的で不愉快な考え方にうつるかもしれない。そして、個人、自由、といったものを尊重する現代の気風からみて時代遅れと揶揄されるかもしれない。
 
 だが、私個人は、狩猟採集社会から連綿と受け継がれるホモ・サピエンスの平均的スペックというものは、現在の都市空間の自由度や、近代西洋的な個人主義に合致した設計になっていないんじゃないかと疑うし、だからこそ現代都市空間で繰り広げられる自由な切磋琢磨に追随できずに迷走してしまう個人が続出するのは避けられないのではないかと思う。本来、ホモ・サピエンスの行動遺伝学的特徴は、(狩猟採集社会を含め)少人数のコミュニティのなかで、individualの概念すら曖昧な状態のもと、コミュニティ内ルールの内側で暮らすことを念頭に設計されているんじゃないかな、と私は推定している。もしそうだとしたら、“村の掟”の崩壊・個人の自由の拡大に耐えられない個人が出てくるのはいかにも当然のことのように思える。
 
 勿論、人間の中枢神経系はきわめて汎用性の高い装置なので、出来るだけ先回りして考えたり、足りない部分を補ったりといった最大限の補正は為されることだろう。また、そういった補正が為されるからこそ、現代都市空間の自由度の高い状況下に多くの人は耐えられるのだろう。だがやはり、行動の枠組みとなる“村の掟”も無い自由な都市空間のなかで、どう行動するのが適切かを見失って欲望のまま迷走する人が出てくるのも致し方の無いことのように思える。今後、地域コミュニティが益々徹底的に崩壊し、個人という主体が持つ自由度が益々上昇した時、さて、あなたや私は迷走せずに立っていられるのだろうか?高い自由度を生かし切った戦略を採択して、より高い適応を目指すことが出来るのだろうか?あるいはあなたのお友達は?あなたの家族は?
 
 個人の自由度が高くなることは、(そういう事を討論することが好きな)頭の良い人の、頭の良い言説的には、そりゃあ歓迎すべきことなのかもしれない。だが、私達凡庸な大衆にとってどの程度歓迎すべきことなのか?ホモ・サピエンスの行動遺伝学的特徴とはどういう相性なのか?世界は偉人の基準で出来てはいないと誰かが言い残したが、それと同様、平均的なホモ・サピエンスの行動遺伝学的特徴も、倫理学者や哲学者の基準では出来ていない、多分。個人の自由度のみならず、人・モノの流動性の激しさについてもほぼ同じことが言えるかもしれない。私達の行動遺伝学的特徴は、果たしてどこまで激しい流動性に耐えられるのだろうか?個人差はあるにせよ、そのなかで私達の中枢神経系は軋みまくってしまうのではないだろうか?
 
 現代社会と個人との関係を論じる際、多くの論者達は、自由度の上昇のメリットと、村社会のデメリットに注目しがちだ。その理由は、まともな意見が書ける人の殆どが、ネットや学業をはじめとした自由度上昇のメリットを享受できる人達だからかもしれない。しかし、DQN問題をはじめとする個人に関する現代現象の多くは、論者達とは正反対に位置するような、むしろ現代社会の自由度の前に迷走してしまうような、あるいは村社会の枠組みがメリットになり得るような人達においてこそ深刻だと思う。そこのところを、何とか踏まえることは出来ないものだろうか。
 
 私は、自分自身も含めたホモ・サピエンスの能力をあまり高く評価していない。目指すべき高い理想を掲げるのはもちろん大切なことだが、さしあたり今目の前にいる人間を捉えるにあたっては、哲学者や道徳家の高い目線ではなく、もっと平均的な行動遺伝学的特徴に根ざした低い目線でまなざすのが適当だと思う。