シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ついつい難しい語彙を選んでしまう場面(私の場合)

 
 なんか、むずかしいことばを使うのはどうなのかとか書いてありますよ?
 コミュニケーション能力の低い人文系について(訂正とお詫びあり) - Discommunicative
 http://blog.goo.ne.jp/funamushi2/e/0723d08e5fed66a1187ca0667a9ac141
 
 リンク先テキストは、それぞれ考えさせられる。想定読者に伝えたい事を伝えたいなら、それに合わせた言葉にしろよ、というのは合理的な考え方だと思う。厨房相手に難解な哲学用語をまき散らしたり、軍事オタクでもない人に説明無しで専門用語を使ったりするのは、ディスコミュニケーションの典型と言える。おまえは相手に何かを伝えたいのか、それとも「お前らには分からないけど俺には分かる」ことを確認しないと気が済まないのか、どっちなんだよと突っ込んでやりたくなる。
 
 …ということで、私もあまり難解な単語は使いたくない。使えば多分、読んでくれない人が増えたり、わかってくれない人が増えたりするからだ。出来るだけ多くの人にテキストを分かって貰いたいなら、分かりの良い語彙で、できれば短めのすっきりした文章を書くに限る。そうすれば、ボキャブラリーのある人も無い人も安心して読める文章になるだろう。
 
 ところがそれでも私は、難しい語彙を使ってしまうことがある。使わざるを得ないことがある。「自己愛」「シミュラークル」「エポケー」などなど、普段使わずに済ませてしまいたい単語を、それでも使うのはどんな場合か?
 
 第一には、それらの単語じゃなきゃニュアンスが伝えにくいと判断した場合だ。それぞれの面倒な語彙には、それ固有のニュアンスと背景が宿っていることが多い。それらを援用したほうがきめ細かい内容が伝わりそうだと思った時は、やはり難しい語彙を使ってしまう。ただし、こうする事によってコミュニケーションのレンジは大幅に狭くなってしまう事を覚悟しなければならない。読み切れる人には伝わりやすくなるかもしれないが、語彙を知らない人は「はぁ?」となってしまったり、「こいつ何気取ってやがる」と思われたりするリスクが高い。ましてはてなダイアリーのように、誰でも読む設定の場所でこれをやっちゃうと、そういった副作用は不可避だ*1。“たくさんの人がみてくれないかなぁ”と考えるblog主さんには、あまりお勧めできない。
 
 第二に、それらの単語を使うことで、長々とした注釈をカットしたい場合だ。例えば「エポケー」という語彙が孕む意味を巧く伝えたいと思った時、どれだけの人が“もっと簡単なセンテンスで、短めに言い換える”ことができるだろうか?私には出来ない。いや、よくよくわかっている人ならそれが可能かもしれないが、今の私の程度ではそれが出来ない、ということだ。だけどどうしても、「エポケーが丁度いいったらいい!」と思う時もある。で、仕方がないのでエポケーを使う。これって、明らかに書く側の都合による判断で、読む側の都合を軽視した判断だが、書く側たる私の能力不足の故に難しい単語を導入しなければならないことがある。
 
 結局私の場合、上のどちらにしても、書く側の都合と能力によって仕方なく難しい語彙を使っているらしい。本当はもっとわかりやすい語彙で簡潔な文章で済ませてしまえば良いのだが、それが出来ない程度だから使っちゃうというわけである*2。予め標的読者を絞った文章はともかく、そうでない多くの“ブログエントリ”では、難しい語彙を出来るだけ使わないように済ませたいところだ。そのためには、[難しい語彙そのものをもっと良く知ること][簡潔に文章をまとめること]を追求しなければならなそうだ。
 
 尤も最近では、はてな等で難しい語彙を使うと自動的に説明リンクが貼られるようになったので、難しい語彙を使っても何とか伝わるかな、と思っちゃう部分はある。“分からない人はリンク先を読んでみてよ”みたいな。とはいえ、それじゃあいつまで経っても「大した事を書いてない割に単語が難しい文章」ばかり書いてしまいそうなので、あまりあてにしすぎたくないところ。
 

*1:この対極にあるのが、専門家用の専門誌だ。専門誌のほうでは、的確な専門用語を多用する事で、長さの割に密度の高いdiscussionが可能になる

*2:同様に、私の文章が全体として長いのも、要は、下手なんだと思う