シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

オタク界隈の外でも失われない、「萌え」の重要な機能

 
 どんどん多義的になっていく「萌え」という言葉。にも関わらず、未だ「萌え」という言葉は首尾一貫したひとつの特徴を失うことなく日本中を駆け巡っている。このテキストでは、その首尾一貫した特徴に関して、考えてみる。

 
【「萌え」の湯加減によって蓋をされたもの】
 
 もともと「萌え」は、二次元美少女に対する言いたくても言えない気持ち(特に防衛された性的ニュアンス)をオブラートに包んで表現する為の便利な語彙として広がったんだろう。自分がプッシュするキャラクターに言及する際に、“性的ニュアンスを適度にフィルタリングする”装置をやはり必要としたオタク達にとって、「萌え」はちょうど良い湯加減だったんじゃないか*1と思う。「萌え」という語彙のぬるさ加減は抜群で、最も臆病なオタクさえ、異性やセックスにまつわる不安・葛藤を(自他両方に対して)十分フィルタリングしながらキャラを語れるようになった。または、自分自身に「萌える」ことを許可できるようになった。「萌え」という語彙なりルールなりが有用かつ必要だったからこそ、オタク達の間にあんなに広がったんだろう。
 
 萌えるオタクの脳内では、異性へのストレートな発情も自己愛の回収も、キャラクターとの双方向的コミュニケーションを介さずに行われている。脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係(汎適所属)に書いたように、キャラクターに期待と願望を押し付けてそれらを丸ごと回収するという、ナルシスティックでご都合主義的な快楽回収が、「萌え」という体の良い言葉の裏側では行われている*2。勿論、こんな快楽を直視できる人間はそう多くないので、適度な防衛によって“勃起したペニスを隠して”体裁を整えなければならないけれど、「萌え」という語彙の湯加減はそういった体裁繕いにぴったりだった。実に上手く機能した語彙だと思う。
 
 「萌え」という曖昧なオブラートが流通することによって、オタク達は「防衛せずにはいられない願望」に簡単に蓋を被せることが可能になった、と私は考えている。二次元美少女へのどす黒い快楽に怯えて逃げ回らなければならなかった層も、二次元美少女に対する快楽を強迫的に隠蔽しなければならなかった層も、今なら適度な湯加減で「萌える」ことが出来る。一方向的でナルシスティックな願望を、「萌え」の湯加減で防衛しながら、或る者はエロい脳内補完を通して快楽を回収し、或る者はプラトニックな脳内補完から快楽を回収するという構図。これが、「萌え」の古典的用法に親しんだオタク達が快楽回収する際の典型的在り様と言えるだろう。
 

【対象が二次元美少女ではなくなっても】
 
 そして2006年。弛緩した「萌え〜」も含め、「萌え」の用法と意味は大きく広がった。
 
 これまで殆ど二次元美少女だけが対象で、言葉の使用者もオタクだけに限られた「萌え」も、今はそうではない。「萌え」という言葉の機能に味をしめた人達が、こぞって「萌え」「萌えー」「萌え〜!」と呟いている。メイドに「萌え」、女子高生に「萌え」、麻生外相に「萌え」、F-22ラプターに「萌え」etc...。もう何でもアリだが、どの用法においても、“相手の都合も等身大の姿もそっちのけのまま、ただ一方向的に欲望を投げかけては自己愛ごと回収”という構図は変わらない。また、「萌え」という言葉の曖昧なオブラート加減が、そういった“業突く張り”を防衛する盾となっている構図も変わらない。
 
 やはり、二次元美少女以外を対象にする場合も、「萌え」という言葉でごまかしながら快楽希求をする際には、双方向的なコミュニケーションなどというものは存在しないらしい。自分の欲望を乗せた「○○萌え〜」という呟きは、脳内の快楽タービンを一回転させることはあっても、対象にぶつかることもない。*3。ぶつからないからこそ軋轢や衝突もないわけだが、コミュニケーションも共通理解も生まれない。ただ、脳内の自家発電タービンが一回転して、対象への投射→回収をとおしてナルシスティックな欲望満たされるだけである。この構図は、オタク達が二次元美少女達を消費する際の「萌え」と変わるところが無い。
 
 生身の女性に対して男達が「萌え」を口にする時、女性の側が嫌悪や気持ち悪さを感じることがあるが(例:文化系女子萌えの件、など)、あれって要はオナペットにされた嫌悪感なんじゃないかと私は疑っている。「萌え」というオブラートの向こうに透けてみえる、自慰的かつ一方向的な快楽回収の気配を、彼女達は敏感に感じ取っているのではないか。だからあんなに「気持ち悪い」と嫌悪するのではないか。双方向的コミュニケーションを放棄し、その場でちんちん丸出しにして自慰的に快楽を回収している男達に、女性側から「気持ち悪い」とクレームが出ることに違和感は無い。「萌え」の対象にされて嫌悪感を覚える彼女達の反応は、「萌え」という言葉の水面下で起こっている営みを知る上で重要な手がかりを提供しているんじゃないか。
 

【みんな「萌え〜」というこの時代は、後日どう回想されるのか】
 
 日本全国に様々な形で流通するに至った「萌え」だけど、このように、一方向的な快楽の回収をオブラートに包みながら(=防衛しながら)遂行するのに好都合な機能だけは、ほとんど変化する気配が無い。結局「萌え」は、双方向的コミュニケーションとしてのニュアンスを獲得することもなく、自己満足な快楽希求に、ある種の体裁を提供する機能を担い続けている。この機能は、どこの誰が「萌え」を口にするかに関係なく、割と普遍的にみられるものであり、まさに今「萌え」に(密かに)期待されている機能だと思う。
 
 相手が二次元美少女でも、概念でも、物体でも、生身の人間でもお構いなしに「萌え〜」と快楽に耽る私達。「萌え」を口にし、双方向的コミュニケーションを試みるでもなく自家発電的に快楽回収することに明け暮れる私達。オタク界隈から滲みだした「萌え」が(中核機能を失わないまま)ここまで流通した背景は何だろうか?そういうニーズがあったからこそ、時流に乗ったと理解するのがやはり妥当か。おそらく一過性のブームにせよ、「萌え」などというものがここまでおおっぴらに流通してしまう今日日の社会病理って、一体どんな按配なんだろうか?または、「萌え」がここまで流通してしまう今日の空気は、後日どのように回想されるのか?今後「萌えブーム」が鎮火した後も、ぬかりなく観察と考察を続けたい。
 

*1:参考:「萌え」の内側には性的なニュアンスが隠れている。(それも、ぱんぱんに、堪え難いほどに) - シロクマの屑籠

*2:二次元美少女業界が、こうしたご都合主義に寄り添うような形でコンテンツを進化させた事にも注目。

*3:似たような快楽を持った者同士で共鳴することなら、ある。だがこの場合も○○萌えの○○との対話や双方向的やりとりに発展する事は、無い。