シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

『惑星開発委員会』に対する、副産物の形をとった問いかけ

 
 このテキストは、文字数が多すぎて四部作のうち一つを後回しに - シロクマの屑籠に書ききれなかったオマケです。治療薬としての『惑星開発委員会』を色々考えていた際の副産物です。幾らか9/24の書き込みと重複があるかもしれません。ご了承ください。
 
 今回の考察の副産物として、『惑星開発委員会』ならびに善良な市民さんと議論を交えてみたいと思った幾つかアイデアが浮かんだので、アップしてみる事にする。『惑星開発委員会』と論戦してみたいと思っている人達に問いかけて欲しいことだし、出来れば善良な市民さんに直接会ったおりに質問してみたい点でもある。ひょっとしたら、以下を真面目に考えることは、『惑星開発委員会』の議論を促進するか、主張の有効範囲を減殺するか、『惑星開発委員会』を手に取る人達に先入観を植え付けるかする可能性を秘めている、かもしれない。
 
 

・動員をかけるかけない問題
 善良な市民さんは、「動員をかけるかかけないか」という話に言及した際に、「あえて」動員をかけることは無い、と答えている。とにかく教養を確保する環境を整備して、後は考えて貰うだけだ、というのがスタンスらしい。これは、人前で討論を行う知識人のスタンスとして恰好の良いジェスチャーだと思う。
 
 だが、おそらくは善良な市民さんも周知の通り、動員を意図的にかけようとかけまいと、影響力のあるテキストを発信する善良な市民さんが目立てば目立つほど、有象無象が勝手に影響を受けて勝手に色々動いていくことは避けられない。まして、“冴えて恰好いい”文芸論を冷徹に断じるように論じる姿勢や、人前で動員を避ける姿勢そのものが、とっても魅力的ときていれば尚更だ。読者は、善良な市民さんから多大な影響を受けざるを得ないし、そして善良な市民さんは「動員はかけない」と言いつつも自分の発言の政治性には十分敏感でいらっしゃる(「動員はかけない」という発言の政治性にも絶対に自覚的だ)。
 
 「影響力のある人は、パンとサーカスにしか興味の無い人達にもわかるように号令をかけなきゃ駄目だ」と言うつもりは無いけれど、「動員をかけないんだけれども影響を与えている政治的エフェクト」「善良な市民さんの重力の虜になった小惑星達の姿」「“動員はかけない”と仰る善良な市民さんの発言は、(0,0)ではなくどこの座標軸から発せられたものなのか」などなどはどういう風にお考えなのだろうか。ここら辺、勘ぐったり質問したりすると、何かが分かるかもしれない。
 
 私はコミュニケーションは須く政治的/適応的インセンティブを含んでいると確信しているので、「動員をかけない」という発言もまた動員への意図(政治的意図)を秘めたものと決めつけて考える。政治性に敏感な善良な市民さんが、「動員はかけない」と発言した時の彼自身に対する政治的/適応的意義をしっかり見つめた時、さて何が見つかるだろうか。
 

・価値観のヒエラルキー(1) 大衆はクズという似非教養者をどうするのか 
 “大衆を挑発する”『惑星開発委員会』。彼らは、世の中の裏をみせつけられると夢中になるけれども裏の裏までは考えが及ばない脊髄反射2ちゃんねらーや、凡百の動物化したオタクを批判し、“教養という環境の整備”“現実に帰れ”などの提言を行っている。
 
 これは、一般的にはまっとうで、ベタで、模範的で、わかりやすい提言だ。彼らが批判する“大衆”に欠けているものや、“大衆”が無明のうちにヘドロ沼に堕ちていくリスクについて警告することも出来ている。私個人に関する限り、私個人の適応を現在(とおそらく未来)にわたって守っていく処世と『惑星開発委員会』の提言はほぼコンパチブルと言い切ってもいい。また、“汎用適応技術研究[index]”で繰り広げられるべき技術論の最も重要な部分も、“まだ現実に帰れる人が帰る為のサポート”に違いないと思う。
 
 ただ気になるのは、『惑星開発委員会』の“大衆”への度重なる挑発をみているうちに、“大衆”は下で“教養という環境を整えた人”は上という想定があるんじゃないかな?と疑うようになったって事だ。vol2.のP232からの稲葉振一郎さんインタビューとかを見ていても、何か匂う。教養なり何なりのヒエラルキーがあるんじゃないかな、と。それがモノ書く人間にとって受け容れるべき前提なんだとか言われたらおしまいなんだけど、冷静な者・教養を持って判断出来る者・クリエイティブである者が優れていて、流される者・本能に突き動かされる者・消費出来る者が劣っているという階層構造が透けてみえはしないだろうか。
 
 まあ、そこまでは別に構わない。学問の世界でも、業績による明確なヒエラルキーがあるし、そういう競争は学問を進歩させる上で有用な出来事のように思えるから。ただ心配なのは、この階層構造が、学問・芸術・文芸etcの切磋琢磨や尊敬の精神をはみ出して、“教養の整備が整った人”や“現実に帰っている人”を是として“動物化した人”や“本能的に消費する人”を非とするような、もっとヤバい価値観のヒエラルキーや白黒と繋がっていたら嫌だなぁ、という点だ。もし、『惑星開発委員会』のうちに、そのような「教養が決める人間のヒエラルキー」「知的態度が決める人生のヒエラルキー」といったものが隠れているとたら?ここは、顕微鏡で覗いてみると面白いかもしれない。*1『惑星開発委員会』がそうした価値観のヒエラルキーに“どの程度の割合で汚染”されているのかは不明だけど、これまでの棘のあるレトリックを見る限り、当人達はともかく“『惑星開発委員会』の威を借りる狐ども”が勘違いするリスクは少なくないと思う。
 
 【補足】なお、そういうヒエラルキーが気になって気になって気になって仕方が無いサブカル/オタク論者は、ヒエラルキーのなかで彼と正面決戦して対等の議論をやって登っていけばいいと思う。それが駄目なら、全く異なる分野で素晴らしい成果を挙げればいいと思う。セックスした女性の数を誇るのもよし、素晴らしい伴侶を手に入れるもよし、町内会で子どもに慕われるも良し、小料理屋開いて金銭と感謝を手に入れるも良し。この際何でもいいから、やってのければいいと思う。でも、正面決戦以外の選択肢って、結局『惑星開発委員会』が主張する“狭い優越感ゲームなんかやってないで現実に帰れ”っていうメッセージそのまんまなんだよね。この、教養ヒエラルキー問題に関しては、そもそも教養ヒエラルキーなんぞ関係ない所で楽しく暮らせば全く問題無いし、『惑星開発委員会』もそこの所はきちんと指摘している。
 
 防衛機制が強すぎて“もう現実に帰れない人”については次の項目参照。
 

・価値観のヒエラルキー(2) ルサンチマンはクズという人達をどうするか 
 では、文芸のヒエラルキーにおいては頭が悪くて駄目、コミュニケーションも仕事も近所付き合いも全部駄目で僻み根性丸出しルサンチマンな人達はゴミ箱直行なのか。文化系ヘタレインテリの枠でウジウジしていなければならない人達は駄目なのか。また駄目だとしたらどこまで駄目なのか。
 
 私は、人間の適応は防衛機制も含めて常に最大化すべく(当人のスペックの許す限りにおいて)調整されていると考えている。善良な市民さんも、私も、otsuneさんも、どこにでもいるヌルいオタクさんも、それぞれが随意的/無意識のうちに適応を最大化した結果として現在の適応があるんだと思う。例えば『喪男道』の覚悟さんは防衛回廊を今後も彷徨い続け、これからも“気の毒な人生”を歩むと推測される*2わけだけど、じゃあ私の人生が覚悟さんの人生よりも優れているかというとそう思うわけにはいかないし、私の人生が有意味で彼の人生が無意味だと決めつけるわけにもいかない。もちろん、何らかの数直線のうえでは彼を負の数として自分を正の数とする事は可能だけど、全人的なレベルではどうなのか?
 
 防衛機制が強い人の営みは苦しい⇔防衛しなきゃいけない葛藤が少ない人が気楽、という構図は別に問題は無いと思うし、気楽さを促進すべくルサンチマンの脱却を勧めるところ私も賛成出来る。だけど、『惑星開発委員会』の読者のなかには、“防衛している僻み根性の連中は死んだほうがいいよ”って思っちゃう人や、“防衛の多いあいつは駄目で、それにひきかえこの俺は”とほくそ笑む人が出てくるんじゃないかなぁと心配にならずにはいられない。そんな陰湿な優越感ゲームの為に『惑星開発委員会』が消費されるのはどうなんだろうか?これから先、『惑星開発委員会』と善良な市民さんが段々影響力を強めていった時、防衛機制の強い(そして強くせざるを得ない)人達をまなざす視線にどんな価値観が混入しているのか、色々と問われてくるんじゃないかと思う。ここの所を掘り下げていったら何が出てくるのだろうか?
 

・阿羅漢の道か、菩薩の道か 
 最後に、(不勉強を承知で、だけどしっくり来るので)上座部仏教と大乗仏教の違いを使った喩えを書いてみる。
 
 “大衆”に教養や現実回帰を説き、そうでなきゃ愚行の繰り返しだよ、頑張って戦いなさいよ、という『惑星開発委員会』の説き方は、仏教で言えば上座部チックだなぁと思う。修行して修行して阿羅漢になりましょう、修行しない人は基本的には四苦八苦の繰り返しで助からない、といったところだろうか*3
 
 例えば“動員をかけるかかけないのか問題”をみるにつけても、善良な市民さんは阿羅漢・上座部っぽく喩えられる。自分に垢のつくような、或いは自分自身が迷い誤るような事はせず、どうにもならない人はそのまんまで、とにかく修行して、ぼくら皆で高い境地に至りましょう的な。
 
 こういう上座部的な考え方も一つの考え方で、それを駄目だと言う必要は無いと思う。けれど、上座部仏教に対する大乗仏教側の批判に似たようなことをやってみると、“大衆”に対して異なる対峙の仕方が生まれてくるかもしれない。スペックと環境と因果が整っている人だけが阿羅漢になれるとして、後は駄目ですとやっちゃうのか、多少の不備と手垢がつくのを覚悟のうえで、教養やら現実やらの整備がままならない人達に少しでもマシな処世を提供しようとあがくのか*4?「上座部か大乗か」という話を、今度善良な市民さんにお会いしたらやってみたいなぁ。出来れば、旨い酒を呑みながら。
 

【探せばまだあると思うけれど】
 
 この他にも、『惑星開発委員会』とやりあって理解と誤解をくっきりさせる切り込み方は色々とあると思う。私自身のなかにもまだ幾つか問いかけてみたいことが眠っている。けれども、アイデア集にすらならないほど曖昧模糊としたモノばかりなので、今の段階では(たとえ隣りに善良な市民さんがいたとしても)問いかける事が出来ないような気がする。だが、今後益々飛躍するであろう『惑星開発委員会』と善良な市民さんをもっと知りたい私は、もっと問うて、彼の考えの輪郭をくっきりさせてみたいと願う。disったdisられたとか、勝った負けたなどというくだらない事で幾らか意気消沈したり怒ったりしてもいいじゃん。それは安いコストだ。彼に軽蔑されても、その軽蔑の眼差し*5が彼の輪郭を浮かび上がらせる一情報となるなら、payすると思いませんか?
 
 少なくとも私は、これからも『惑星開発委員会』にアプローチし続ける。彼のテキストに陶酔する人も、彼のテキストを激しく嫌悪する人も、それだけ彼のことを知りたいって事だろうから、アプローチを是非続けましょうよ。そしてあわよくば彼に対して問いかける事もお勧めしたい*6。善良な市民さんのほうも、十分に厄介な問いかけなら食い破ってますます自説を洗練させたいと願っているに違いない。彼ほどのカードが揃っていない私達でも、あるいは見解や価値観が異なる私達でも、彼に質問したり困らせたり一緒に喜んだりすることぐらいは出来る筈だ。
 

*1:が、実際は善良な市民さんは既に十分覗き込んだうえで敢えて政治的振る舞いも考慮しながらモノを書いていると私は推定している。なぜなら彼は、政治的嗅覚が十分発達した、頭のきれる人物だから。むしろ、彼らの提唱する教養のヒエラルキーがあたかも総てのヒエラルキーであるかのように錯覚する人が出るように、だけどそう断言しちゃって何もかもがオシャカになってしまわないように、巧みに言葉を操っているんじゃないかと疑ってしまう事さえある。そんな事は無いだろうけれど、本気でやろうと思えばあっさり出来ちゃう筈だ!あの人なら!

*2:なお、防衛機制というものは、防衛機制を必要とする度合いが少なければ当人の随意的な努力によって解消し得るけれども、脳が硬かったり、洞察に要する知的水準が不十分だったり、防衛を惹起する不安や葛藤が強すぎたりする場合には努力すれば解消出来るということにはならない。「防衛がある奴はクズ」という視点は、「強固な防衛を要するようなスペック不足のある奴はクズ」という視点にスライドしていくリスクを多分に孕んでいる。防衛機制に絡まれた人達と頻繁に話をする私としては、まぁその、そういう視点は受け容れられない、ということです。

*3:教養の整備、という点では、『惑星開発委員会』はまさに修行の参考になるテキストを生産しようとしているように思える。ここは素直に評価すべきだと思う。前述したような、教養数直線問題などの副作用なり何なりはあるにせよ。

*4:ただし、これは一歩間違えばとってもヤバい事になるのは言うまでもない。

*5:スルー含む

*6:ただし、あまりにも取るに足らない指摘だったり、一定以上の電波塔が無ければ電波が届かなかったりするリスクは、ある。勿論、罵倒やら優越感やらを目的とした仕掛けは相手にして貰えないだろう。さて、私のこの文章は、読んで貰えるかな?もっと読んで貰いやすい文章が書けるようになりたいなぁ。