シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

情報の海に溺れ、「魔女狩りの如き決め付け」を繰り返す僕ら

 
 見渡す限りの情報。見渡す限りのテクノロジー。見渡す限りの他人。
 想像を絶する数の選択肢と、想像を超えた速度で推移する世の中。
 現在の僕たちが住んでいる世界は、あまりにも情報片と選択肢が多い。
 だけど、判断する僕らの脳と情動は、古代人と大して変わっていない。
 
 「情報が多いことは良いことだ」などと呑気に笑っていられる人は幸福な人か、とびきり頭が良い人なんだろう。これだけ他人や社会や自分の利益に関係した情報が増加したにも関わらず、未来は不透明で、自分の立場も不明確で、何を選択するのが適切なのかは分からないというのが娑婆の現況ってもんだ。いや、むしろ中途半端な情報片が増えたことによって、僕たちは「一層わからなくなってきている」。情報を収集すれば色々な事が見えてくると思ったら全然そんな風じゃなく、情報を集めてすぐに分かるのはせいぜい部分部分の拡大像ぐらいなもので、手元には不安げな断片ばかりが届けられる苦痛!「じゃあ結局俺はどう判断するのがベストよ?」という全体を俯瞰したうえでの結論は、情報量が増えた分だけ以前より到達困難になっている。もちろん、玉石混交の中から最も重要な情報を取捨選択できる人や、複数の情報を巧みに組み合わせて統合的な推論を実行できる人といった頭の良い人達は(今まで以上に)有利になるに違いない。だが、そうでない凡愚の僕たちにとって、情報断片の大氾濫は、神経を磨耗させ・判断の羅針盤を狂わせ・不安を煽り立てるばかりの苦しい状況なんではないだろうかと心配になってしまう。
 
 とはいえ、古代の軍指揮官が取り扱わなければならなかったよりも多くの沢山の情報片に毎日曝されているにも関わらず、現実はというと、意外と多くの人は精神を破綻させることなく、情報の大河で(なんとか)溺死を免れている。外から入ってくる情報はどれも細切れで、わけがわからなく、なかには強い不安を惹起するものが混入しているっていうのに、パニックになるわけでもなく生きている僕たち。幾ら中枢神経の神経細胞が刺激に応じてシナプスを絡めあっていくとはいえ、ものには限界ってものがあるでしょうに。この事を考えると、僕は、人間の中枢神経の情報フィルタリングの強力さに感心せずにはいられない*1。すげぇよなぁ。
 
 人間の脳みそは本来、ここまで大量の(新規の)人・(新規の)情報に曝されるように設計されてはいないっぽいけど*2、それでも何とかこなせるのは、神経細胞の可塑性もさることながら、効果的な情報ショートカット機能を装備しているからに違いないと推測する*3。ショートカットと言うと聞こえが良いけれど、このショートカットの少なからぬ割合は「根拠薄弱の決め付け」「思い込み」で占められている。これらの決め付けは、情報の形が歪む等の副作用と引替えに、不安を惹起したり脳に過負荷を加えて混乱したりするリスクを回避しやすくしてくれる。例えば「地球温暖化が進行している」「現代人の生活は成人病になりやすい」という情報。こういう不安な情報が未加工のまま頭にこびりついている人は不安で仕方なくなりそうだが、普段は忘れていたり、「○○という健康食品を摂っているから大丈夫」「エコ商品を購入して温暖化を防ごう」と思い込むことによって不安を拭い去ることが出来る。また、多元的な要因で発生していて特定の原因ひとつに還元出来ない現象についても「魔女のせいだ」「フィギュア萌え族のせいだ」などと一元的に断定して思い込んでしまえるならば、僕たちはすっかり安心して把握したつもりになれる
 
 本来、大量の情報断片を並べて繋ぎ合わせたうえで安心するのが望ましいとはいえ、それが出来る状況・スペックが実際は限られている以上、こうした「頭の悪い」「現実には即さないまにあわせの」不安除去は程度の差こそあれ、すべての人に要請され続けると僕は考えている。魔女狩りをしていた頃と比べて脳スペックはそれほど変化していないにも関わらず、人・モノ・情報の流れは飛躍的に増加している現代社会。だとすれば、迷信や思い込みに基づく簡易な不安除去をやってしまう確率は、古代・中世の迷信深い人達とそう変わらないのではないか。そりゃ、中世に比べれば、個人が保有する「知識の短冊」は増えているに違いないし、科学的推論のトレーニングすら進んではいる。だけど、「知っていること」「考えられること」の増加と同じかそれ以上に、「わからないこと」「考えられないこと」が増えていることに着目しなければならない。見知らぬ外国人・原因不明の不登校・性犯罪・キレる若者、などに関する情報の断片は、判断を促さず、むしろ不安だけを与えてしまう。原因も一元的に説明づける事が出来ない。こうした、不安且つ曖昧な情報片に対して、僕らはどこまで適切な態度をとることが出来るのか?そりゃ、なかには出来る人もいるだろうし、不安にも関わらず留保の態度をとれる人もいるだろう。だけど、一元的な決め付けに身を委ねたり、不安を防衛する意味合いしか持たない「見掛け倒しの対処行動*4で束の間の安心に飛びついたりする人のほうが遥かに多い事を僕は知っている。相互不理解や偏見に伴う摩擦、心的サプリメントとしての意味合い以外には全く実効性の無い「運動」などなど、頭のいい人達によって非効率呼ばわりされそうな思い込みを、頭のよくない僕らはついつい選択してしまうに違いない*5が、個人の適応という視点からみた時、じゃあ他に不安や葛藤のやり過ごしようがあるかと言うとある筈もなく、僕らますます多くの事物に対して(安易で一元的名)決め付けや信じ込みを要することだろう。また、現にそうしている。そうしなきゃ、ホメオスタシスが保てない。とりわけ、不安を煽りがちで、全体的把握が困難な、よくわからないものに対しては。
 
 世間の人は、「決め付けはいけない」とか「少ない情報で断じてはいけない」とか色々言うけど、なんのことはない、実際はその世間の大半の人は今も「決め付け」の世界に生きている事を思い返してみよう。頭の良い理想主義者を拝むだけじゃなく、僕たちの愚劣で臆病な判断の牢屋を這いずってみよう。最も判断力に富んだ人でさえ、自分が興味を持っていない分野で不安な点があると、少ない情報で判断をショートカットしようとする誘惑に抗するのは容易じゃないって事を思い出してみよう。「マスコミが伝えたからフィギュア萌え族は犯罪者」、「2chに書いてあったから韓国人は全部キチガイ」といったタイプの一方的思い込みは、得体が知れず情報が断片的にしか伝わって来ない部外者に対しての不安を減弱し、不安な考察迷路を彷徨うという(誠実だが)エネルギーとスペックを要する作業をショートカットしてくれる有意味な営みでもある。明確な適応的意義が存在し、無意味な筈が無い。集団レベルでみれば、こうした決めつけは無用な摩擦と資源の無駄遣いを生みだす厄介者だけれど、個人のメンタリティの防衛・統合という視点からみた時、情報フィルタリングとしての「決め付け」はむしろ適応促進的であり、だからこそ決してなくならないと推測される。判断をショートカットし、不安を防衛できるこれら「魔女狩りの如き一方的決め付け」は、欠く事の出来ない適応行動として、僕らの人生にまとわりつくことだろう。不安の防衛と引替えに、悲喜劇の副作用を惹き起こしながら。
 
【追記】
 幸か不幸か、個人が一生の間に遭遇する情報量は増加の一途を辿っており、遭遇する情報片のなかには「環境問題」「理解しあえない他人に関する問題」などなど、専門家以外には考えても考えきれない不安な断片も数多い。情報量の増大に伴う不安を抱えきれなくなった者から順番に、僕たちは益々「魔女狩り的な決め付け」に身を任せて不安を紛らわせようとするだろう。また、決め付けに基づく対処行動(バッシングや、不安防衛アイテム消費など)を選択して、不安からメンタルを守ろうとするだろう。総合的判断を伴わない、取り扱いの難しい情報片ばかり溢れかえったこの情報化社会は、中世に勝るとも劣らないほど「決め付け」が横行しやすい状態なんじゃないかな、と思わずにはいられない。こんなにまで「よくわからないけれども不安な」情報が溢れかえっているなんて!
 
 もし、この手の「魔女狩り的決め付け」を取り除きたいと思っている人がいたら、こうした決めつけもまた適応的意義を十分に持っている事を意識したうえで対策を練らないと駄目だと思う。また、現代社会がいかに情報豊富になったとはいえ、不安を拭うことには全く成功していないか、不安を煽ってさえいるかもしれない点に着目しなければまずいと思う。
 

*1:なお、この情報フィルタリング機構が壊れているっぽい人が時々精神科にはやってくる。彼らはとりわけ人工的な情報負荷に対して脆弱または繊細だ。

*2:なぜなら、サバンナで生きていた頃のホモ・サピエンスが一生の間に目にする外界というのは、比較的限られた経年変化の少ない情報で構成されていただろうから。また、時代の流れ、などというものは無きに等しかっただろうから

*3:ああ、昔の偉い人の受け売りですいません。

*4:この代表例が、環境破壊や資源枯渇に対するエコ商品の消費であり、途上国搾取に対するホワイトバンドである

*5:尤も、「頭のいい人達」のなかにも、見掛け倒しの考察ごっこに耽る、自分の不安を防衛する為だけにテキストを書く人が多いから、「頭の良い悪い」は関係ないのかもしれない。