シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

群れるオタより孤独なオタのほうが、オタ仙人に邁進しやすいのでは?

 
屈託の無いぬるオタ仲間達――賢くなくても楽しい日々 - シロクマの屑籠
 
 先日会食したぬるオタ仲間達の事に関して、以下のようなコメントを頂いた。曰く、オタク仲間はぬるオタにとってオプションではないか?一人でオタオタしていたほうがぬるくやっていけるのではないか?という指摘だ。興味深い指摘だと思ったので、引用してちょっと考えてみようと思う。果たして、孤独なぬるオタはぬるオタで居続けることが出来るのだろうか?また、孤独なオタこそがぬるオタになっていくのだろうか。
 

うーむ、もう少しぬるくなれると思います。
 今となっては情報仕入れも買い物も殆ど自分独りでできる為、即物的な意味での仲間の利用価値もあまり無いように思います。実際、コミケもお気に入り巡回と漫ろ歩き程度なら独りでなんとかなりますし。もしあるとしたら、ゲームソフトの貸借くらい?また、オタ会話も(殊に属性が異なる者間では)向かい合っての独り言になりそうだし、どんなきっかけで優越感ゲームが偶発的に始まってしまうかもわかりません。それに、仲間とつるんでばかりいると、彼等と離れた時点でオタコンテンツの楽しみ方が減ってしまいます。
 同じオタクとは言えそんな他人にかかずらうよりも、自分の為だけにお気に入り巡回や情報収集やコンテンツ消費をした方がより平穏安定ataraxiaに近いと考えられます。という訳で、ぬるオタにとってはオタク仲間すらオプション品なんじゃないかと思うのですが。
(id:cyclolithさんのご指摘)

 
 cyclolithさんは指摘する。「オタク仲間とのコミュニケーションから楽しみを得る方法は、オタクコンテンツの楽しみを減らしてしまう可能性があるし、人間関係に楽しみを依存するリスクとコストを負うのではないか?また、オタクコンテンツに関する情報収集が容易になったので、かつてのオタク達のように草の根ネットワークを持つことによるオタク情報の入手といった利便性もなくなっているのではないか?」と。このご指摘そのものは尤もなものだと思う。
 
 一方、人間関係やぬるオタコミュニケーションの楽しみよりもオタクコンテンツそのもののpleasureを優先させる有り様や、「オタ同士の草の根ネットワークを通してさらにオタクコンテンツに深くコミットして楽しんでいく」というのは、むしろストイックなオタク達――求道的で、コンテンツの楽しみを第一とするようなオタク達――の在り方に即していると思うんですが、如何でしょうか。群れない一人のオタクはしがらみが少なくて気楽かもしれない一方、いやだからこそ、オタク趣味には益々深く邁進していくような予感がするんです。
 
 現在も生き残る比較的ストイックなオタク達は、オタクコンテンツそのものから楽しみや理解を享受する事を第一義とする趣味人だと思う。また彼らは、オタクコンテンツの鑑賞がノイズによって邪魔される事に敏感な場合も少なくない。このような指向性を持ったオタクで、尚かつ一人ぼっちのオタクの場合、たとい現時点でオタク知識が浅い段階にいたとしても、人間関係に脇目もふらずオタクコンテンツを追いかけ続けているうちに自ずとオタク仙人になっちゃうんじゃないかなぁ、と思う。まして、ネットや2chからの情報収集な容易な現在、コンテンツに貪欲な孤独なオタク仙人がまっしぐらに突き進んだ場合、ぬるオタが数人束になっても敵わないほどのオタク的広さor/and深さに到達するのは決して難しくない思う。手間と暇さえ惜しまなければ、誰にも邪魔されないでどこまでも趣味を追いかけられる、孤独なオタの境遇…彼は、自ずとぬるくないオタク仙人へと成長していくんじゃないだろうか。
 

 対して、ぬるオタ達、とりわけオタク仲間とのコミュニケーションや馴れ合いを重視するオタ達においては、オタクコンテンツは仲間とつるむ為の接着剤であったりオタク仲間と遊ぶ為の話題でもあったりするわけで、どこまで純粋にオタクコンテンツに食いついているかというと怪しいところだと思う。それこそhttp://d.hatena.ne.jp/kagami/20060807#p2で指摘されてるような“他人指向型ライトユーザー”という言葉がしっくり来るようなオタク達こそがぬるオタの本態と捉えるなら、彼らはオタク内コミュニケーション促進の意図を持ってコンテンツを消費する度合いが強いんじゃないかなぁ。少なくとも、私が一緒に飯食べてたぬるオタ達や、私の知っているその他のぬるオタコミュニティにおいては、こういう傾向が色濃かった*1
 
 こうしたオタク内コミュニケーション指向の場合、ストイックな姿勢でオタクコンテンツと向き合う事は少なかろうし、(コンテンツを楽しむにあたって)ノイズが入る入らないよりも仲間と楽しくオタオタ出来るかどうかを重視するに違いない。自分自身のオタク求道に全力を尽くすというより、仲間との歩調あわせやコミュニケーションを優先させてオタクコンテンツの選択に一定の制限すらかけかねない彼ら。そのうえ“自分の専攻分野を追いかける”“特定分野の好奇心の赴くまま突き進む”為の手間暇が(オタ仲間との)コミュニケーションに費やされるなら、(一人で黙々とコンテンツを追いかけているオタクと比べて)オタク趣味人としてぬるくなるのは避けられまい。彼らがノソノソと新しいコンテンツを探し出すのは、ぬるオタコミュニティ内において話題が枯渇した場合をはじめ、オタク内コミュニケーションの具材としてのオタクコンテンツが不十分になった時だと思う*2。このフットワークの遅さや、オタクコミュニティのしがらみによって足を引っ張られる傾向もあって、オタク内コミュニケーション指向なオタクのほうが孤独なオタクよりも「オタク趣味そのものへの造詣を低い水準に留まらせ易い」んじゃないかと私は推測する。良くも悪くも、オタク内コミュニケーションへの依存と傾倒が、他者指向でコミュニケーション重視のオタク達の(趣味人としての)足を引っ張るんじゃないかと思う。まぁ、先のテキストでも書いたけど、それがいけない事だとか劣っているだとか言うのはナンセンスだから変な価値付けはしなくていいと思うけど。
 

 ダベったりする暇も惜しんでネットで情報を集めて黙々とコンテンツを追いかけている“オタク仙人予備軍”達に、コミュニケーション指向なオタクが「深さ」「広さ」で対抗するのはかなり難しい、それが2006年の当世オタク事情だと思う*3。現代のようにオタクコンテンツへのアクセスが容易な時代においては、cyclolithさんのご指摘するような“人間関係のしがらみを無視した”オタク的アプローチは、むしろ今まで以上にオタク趣味への造詣を広く深いものにしちゃいそうだ。対して、ぬるオタ仲間とのコミュニケーションを重視するオタク達は、(コミュニケーションに時間やお金を費やして仲間に迎合する形でコンテンツを選択する分だけ)自ずとぬるくなりやすいんじゃないかと思う。少なくとも、一人でオタクを黙々とやるよりはオタク趣味人として相対的にぬるくなっちゃう傾向が強いんじゃないかなぁ。
 

[関連]:シロクマの屑籠 

*1:唯一シューティングゲームを除けば、多分私自身にもそういう傾向は強いと思う。私個人を振り返ってみると、コンテンツそのものを前のめりに楽しもうとするシューティングゲームは殆ど一人で遊んでいる。対して、アニメやコンシューマゲームの分野に関しては、コミュニケーションに供しやすいオタクコンテンツを選択している傾向が少なくないように思える。

*2:ひょっとしたら仲間内優越感ゲームやオタク内ステータス向上のアクセサリとして、という場合も往々にしてあるだろう。例えばhttp://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20060314/1142264837に示したような、ぬるオタコミュニティ内におけるポジションの獲得とか。優越感ゲームであれ、コミュニティ内椅子取りゲームであれ、コミュニケーションの為の触媒であれ、この手合いのオタクにとってのオタクコンテンツ理解なりオタクコンテンツ消費なりというものは、やはり他人指向と言えるだろう。

*3:かつて、草の根の繋がりが重要だった時代のとりわけ地方オタクにおいては、逆に人脈の広さがオタ趣味人としての深さ広さにも直結していた点に留意。