シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

DQNという個人の適応形態の再評価――public spaceにおける暴力の復権(要約)

 
 DQN‚Æ‚¢‚¤ŒÂl‚Ì“K‰žŒ`‘Ԃ̍ĕ]‰¿\\public space‚É‚¨‚¯‚é–\—Í‚Ì•œŒ (”Ä“KŠ‘®)
 
 DQNとは不適応だろうか?否。DQNという選択、DQNという適応戦略は、現代日本の世の中で生きていくうえで軽視出来ない、有用な選択のひとつであることを指摘することが、このテキストの目的となっている。
 
 DQNと呼称される人達には、
・他者への迷惑を顧みずに社会において行動する(反社会的・自己中心的)
・込み入った思考を苦手とする。長期的展望もあまり持たない(短絡的・知的でない)
・問題の解決や成員の差異化は、専ら恫喝や暴力によって行われる(暴力や恐喝を否定しない)
 
 といった特徴を持っており、社会全体というマクロな視点でみた場合、『自己中心的でカオティックな振る舞い』は憂慮するに足るものと言えそうである。一方、彼/彼女個人にとってDQNという適応は、現代日本社会(ジャパニーズ・ポストモダンとでも呼べばいいのだろうか?)に即した適応と呼ぶことが出来そうである。
 
 まず現代日本社会は、文化が細切れ化し、地域社会が崩壊した状態のため、他人同士が共通理解や共通基盤を持ったうえでコミュニケーションをとる事が困難になっている。このため、他人同士が出会った時に互いの意図や思惑を読みあったうえでコミュニケーションを行うことが極めて困難になっており、経験が少なく文化細分化の影響を最も受けている若年世代においてはとりわけ顕著と思われる。この状況下において他者の思惑を読み合ったうえでコミュニケーションすることは、昭和時代に比べて高度な判断力・豊かな経験・高いストレスなどを要求されるに違いなく、しかし達成出来なかった個人は(例えば思春期コミュニティのような場において)高い適応を達成することが困難になる。
 
 しかし、DQN的メソッドを取った人間はこのポストモダン的問題を比較的簡単に回避することができる。あまり高度な判断力を求められることはなく*1、威圧感と腕っ節さえあれば、高い知能や豊富なコミュニケーション経験を必要としない。しかもDQNヒエラルキーの中で上位の人間に遭遇しない限りにおいては、ストレスも最小化することが出来る(なぜなら彼らはpublic spaceでも自己中心的振る舞いを押し通せるからだ)。狭義のコミュニケーションシーンにおいて現在要請される、高度な判断力やストレス耐性を、DQN達は必要としない。もし、腕力や威圧感が強くてストレス耐性が低い人間がいたとしたら、正規のコミュニケーション競争をやるよりはDQN的振る舞いに徹したほうが有利になることが出来よう。
 
 かつての村社会・ご近所付き合いのコミュニティでは、public spaceにおいて傍若無人な振る舞いを行った者には地域全体に悪い噂が広まる等のしっぺ返しが帰ってくる可能性があったし、逆に互恵的行動には「あの人はとても良い人」という噂が広まるような適応的メリットがあった。しかし、現在都市空間においてはpublic spaceにおいて傍若無人をしたところで何の制裁も無いし、互恵的行動をとったところで評価してくれるご近所付き合いもみられない。都市空間においてDQN的振る舞いを行うことは、警察のご厄介にならない範囲においては、個人的メリットは大きいが個人的デメリットは少ない。少なくとも、かつての地域社会・ムラ社会よりは小さい筈と言えるだろう。
 
 以上のような今日的環境の帰結として、マクロレベルにおけるDQNの増加と、ミクロレベルにおけるDQN的適応の有効性の上昇が顕れていると私は考えている。特に、短期的適応においてこの傾向は著明だろう。DQN的適応の優位性と氾濫は、社会・文明・文化といった次元に関する限り遺憾の極みかもしれないが、現代の日本社会の状況は、少なくともこれまでよりもDQN的適応形式のメリットを大きくし、デメリットを小さくするものと私は考える。そして私の知る限り、実際人々の振るまいはその通りになっているように見受けられる。
 

*1:例外的に、相手の表情に浮かんだ情動を把握する能力ぐらいは必要とされるが