シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「人間の全行動は利己的動機・意図」を含んでいるという前提で考える方法論

 
ほんとにそれだけでいいの? - 読書感想日記

【人間の行動には、利己的動機・意図動機が含まれるという前提】
 
 私は、個人個人の行動ひとつひとつに含まれた動機・意図・インセンティブを嗅ぎあてて、自分自身の社会適応に生かそうと考えやすい人間だ。男女交際だろうが、オタクの行動だろうが、倫理道徳の類だろうが、それを提示する個人にはそれを提示するなりの動機や意図があるからこそ行動するという前提のもとで眺めやる。無論、自分自身の言動に関してもだ。先日、ある人(id:subscriberさん)が以下のように質問した事にも、私ははっきりと返事をする事が出来る(その是非はともかく)。

やっぱり、シロクマさんとしては、倫理や道徳をもっと実存的な理由に還元したいという強い思いがあるんですかね? だとしたら、その理由というのが(ご面倒でなければ)聞きたいです。

 はい、強い思いがあります。倫理・道徳・利他的行動を人間が選択する時に、どのような利己的動機・利己的インセンティブが存在するのか、私は徹底的に洗い出しを図るし、それをもとにして対象人物の次のアクションを予測したり、彼/彼女が期待しているであろう(次の)私自身のアクションを推定したりする。
 
 私が他人の行動を考察する場合、「利己的動機・意図・インセンティブを含まない行動は存在しない」という原理原則に基づいて推論が実施される。コミュニケーション*1に関しても同様で、凡て、利己的動機・意図・インセンティブを含んだ上で実施されると私は本気で考えている。というか規定している。
 
 つまり、私にとっての人間の行動(あるいは全生物の行動)は、全て利己的意図を含んだ計算高い行動であるという前提で捉えられており、理論上、一元的にあるいは一つの数式上で評価することが出来る。もちろんこれを演算しつくす事はお釈迦様以外には不可能だけれども、出来るだけ良い近似式を探して演算を行うことによって、他人の行動の動機にアプローチする事は出来るだろうし、私は日々そうやってコミュニケーションを行っている。臨床的に(または日常生活的に)さしあたり私が必要としているのは、正確だが難解で長ったらしく哲学者を満足させるような、そういう完璧な解ではない。簡便で短く、目の前の女の子の動機や意図を天気予報ぐらいの精度で類推する近似式だ。現在私が採用している近似式は、

 任意の行動に含まれる動機や目論見]=[ホモ・サピエンスの本能的・行動遺伝学的欲求][文化的風習的修飾][防衛機制][現在から過去にかけて当人を取り囲んでいた環境・コンテキスト]の関数

 ぐらいになるだろうか。具体的手順としては、

1.ホモ・サピエンスとしての本能的・行動遺伝学的欲求に合致するかどうかを調査する。合致しそうな場合は、それとして相手の動機や意図を類推する。*2
2.次に、文化的特徴に合致するかどうかを調査する。ボランティアひとつとっても、例えば貧乏な日本人がやるのと裕福なアメリカ人がやるのでは全くニュアンスが違ってくるかもしれない。また、おおっぴらなセックスアピールは、同じ日本人とて所属する文化圏が異なれば全くニュアンスが異なってしまう可能性があるだろう。こうした諸点にについて出来る限りの類推を行う。
3.防衛機制の有無について調査を行う。1.2.に合致しなくても、心的葛藤を防衛する為に何某かの行動が要請されている可能性が無いか調査する。1.2.で説明しきれず、尚且つ強い拘りをもって何らかの行動が為されている場合には、具体的損失を支払ってでも心的葛藤を守る為に行われる、防衛機制に由来した適応的行動である可能性がある。
4.当人にとっての環境・コンテキストとしての生活史によって行動が修飾されたり特徴づけられたりする可能性を考慮する。同じ十万円を寄付すると言っても、田舎の人が地元の寺社に寄進するのと、都会の人が大英博物館に寄付するのではニュアンスも動機も大きく異なるだろう。このほか未亡人か否か・10年間引きこもりをやっていたか否か等、個人の生活史上の特徴から類推できるものは大きい。
 
 こんな感じで類推を進めていけば、殆どの場合比較的高い確証度で他者の行動の動機やインセンティブに接近できるだろう、と私は考えている。実際、何度も会ってこの類推作業を続けているにも関わらず、目の前の人の動機やインセンティブを掴み損ねた状態が遷延することは あ ま り 無い。とはいえ、もし生活史などの情報が手に入っても動機や行動を当て損ねた時は、

A.自分の類推モデルに問題がある。修正しなければならない(この場合は、おそらく似たタイプの人は大抵類推を誤るに違いない→その辺りの人についてもっと学ばなければならない)
B.対象となっている人が、現生人類の標準偏差から大幅に逸脱した器質的・気質的傾向を持っている。(例:A群人格障害、高機能自閉症、それ以外の、突然変異に伴う特殊な行動傾向等)
C.対象となっている人が利己的目的を達成すべく組んでいる方程式が、私個人の類推可能レベルを大幅に上回っている。(この場合、対象とのコミュニケーションに際して、話がかみ合わない印象を受けたり、何を考えているのかさっぱり分からない表明が平然と為されたりする事があるかもしれない)
D.文化圏の違いを評価しきれず、アメリカ人を東北人という前提で評価するような愚を犯している可能性。(または電車男の姿をみて「萌え」を了解した気になって類推を進めているような間違いの可能性、と言えばよいだろうか)
 
 などを疑ってかかるが、これらの疑いを持ちつつも、基本的には動機やインセンティブを評価してかかるのが私の姿勢となる。道徳や倫理だけを別の数式で評価するなんて事は無い。カツアゲも、ポトラッチも、倫理も、オナニーも、総て何らかの利己的な目的を含んで遂行される行動として捉えており、具体的には上の1.〜4.A.〜D.に留意しながら計算していく事になる。
 
【総ての行動に利己的な動機・インセンティブがあるという捉え方のメリット】
 
 世界を総て明らかにしようと思う人や、「完璧な人間予測」を期待する人には、私の方法論は全く不完全な方法であり、正直お勧めできるものではない。だが、この方法をとることによって私は少なくとも二つの実益を追求することが出来る(し、多分事実実益をあげている)。だからこそ、やめるつもりはないしやめろと言われても私自身はやめないだろう。
 
 この方法の利点その1。まず、極単純にコミュニケーション上有利だからである。目の前の誰かを喜ばせようと思った時、私は対象の動機やインセンティブを知らなければ相手を効果的に喜ばせることが出来ない。道徳的で倫理的で利他的な行動をとっていると信じながら話しかけてくる人と和気藹々とコミュニケーションをとりたい時、果たして相手の善意を総て鵜呑みにするのが利口なやり方だろうか?そうとは限るまい。善意は社交辞令かもしれない。倫理観は「俺ってこんなに倫理的で正直な奴だから宜しくね!」というディスプレイかもしれない。利他行動は何らかの防衛機制(例えば補償)かもしれない。または思春期坊やの、優越感ゲームにおける顕示かもしれない。これら様々な思惑を知ったうえで相手の「善意」にもたれるのと、何も動機を知らないままもたれるのでは、対象とのコミュニケーションの行方は大きく変わってくるに違いない。
 
 やはり、阿の呼吸には吽で応えることでコミュニケーションは建設的なものになりやすかろう。だから道徳や利他的行動といえど、それを純化した善意の結晶とは捉えず、その背景にある動機・インセンティブに思いを馳せながらコミュニケーションをとるほうが互いに好ましいと考えて、私と対象との妥当な妥協点なり関係なりを構築しようとする*3。双方の利害を十分考慮しながらコミュニケーションをとるにあたっては、利他的行動といえど、あくまで分け隔てなく意図・インセンティブを模索するのが私の姿勢だ。無料ほど高いものは無い筈なんだから。
  
 二つ目に重要な実益は、ちょっとヘンな説明になる。実は、この方法が娑婆世界を説明しつくすには不完全な近似式に過ぎないことによって得られる実益だからだ。利己的動機・インセンティブに関する一連の近似式を洗練させた場合、他人の行動の99%ぐらいは説明可能で、85%ぐらいは(究極的には)類推すら可能だと私は本気で信じているが、それでも100%の説明や類推は永遠に不可能だとは思っている。全く動機不明の殺人・行動遺伝学的にも防衛機制的にも文化的にも考えても了解出来ない自己犠牲・極めて希少なある種の恋愛etcは、私の手持ちの測定装置のいずれにも引っかからない可能性が高い。
 
 だが、それがいい。
仮に、手持ちの「近似式」を鍛えまくってすら動機・インセンティブを把握出来ない言動にブチあたった時、私はどうするのか?答えは決まっている。びっくりするのだ。すげぇ、凄すぎるよ、と。自分の動機測定が甘いだけかもしれないにせよ、もしそういう言動にブチあたったなら、私は真に異常な何かを発見した可能性があるという事だ。ここでいう異常とは、悪い意味じゃなくて、「常とは異なる」という文字通りのニュアンスである。その瞬間、私は常ならぬ何かに遭遇したという事なのだ!それは「精神異常」かもしれない。それは「奇跡」かもしれない。はたまた「超人」かもしれない。何にせよ、娑婆を蠢く人間・動物の法則性を越えた何かを発見したという報せを、私はその瞬間受け取るのだ。この時に目撃した恋愛なり道徳なりは、もう飽き飽きした「利他的行為が衣をまとったモドキ野郎」ではないかもしれない。この時こそ、私は道徳や倫理性を聖なるものとして奉るかもしれない。私は徹底的に道徳・倫理をも利己的行動の「回りくどい形式」として捉えようとするが、決して「計算不能」を恐れているわけではない。むしろ、「計算不能」は私の好奇心や美学や畏怖を呼ぶものだ。そういうものに出会った私は、「奇跡」「異常」「美」を崇め奉るだろう、と同時に、それらの動機が真に追求不能なものか、一層の研鑽を続けていくことだろう。
 

【道徳や倫理を疑って疑って、まだ残った一滴の奇跡を私は崇めたい】
  
 このテキストを書いていて、改めて私は思った。ああ、俺は、自分自身が道徳や倫理も含めた人間のあらゆる行動を利己的動機・インセンティブで一元的に説明する事に微塵の躊躇いも覚えていないんだな、と。進化○○学・心理学・社会学その他色々を組み合わせて眼前の人物の思惑を勘繰ることを私は躊躇していない*4。なぜなら、このような勘繰り作業を通して、私は私自身と対象とのコミュニケーションをより実り豊かなものにしようと意図できるようになるし、突き詰めにも関わらず「計算不能」になった剰余に奇跡や異常を見出せるかもしれないからだ。
 
 利己的動機が含まれた行動を予測して歩調をあわせてコミュニケーションをとることは、私自身の利益を勿論増大させるし、私自身の利益と密接に関係のある周囲の人達の利益をも増大させる可能性がある。また、逆説的ながら利己的動機が「計算不能」の際には、何らかのものすごい「奇跡」「異常」「美」に遭遇した可能性に気づく機会を私は獲得することが出来る。もちろん、そうしたとんでもないものに遭遇した時は、私は素直に畏敬の念で眺めやることになるだろう。私はこの方法論を実地に応用して、私自身および私の環境因子としての周囲の人達の諸々の利得を最大化するように努力する。ただ道徳的・倫理的であるというだけで別格扱いして賞賛する方法よりは、私の方法論のほうが双方向的なコミュニケーションを豊かにするチャンスを得やすいと確信しているし、奇跡的な道徳や純化された倫理性を(雑多な利己的行動や防衛機制から)濾過する事にも成功しやすいと信じている。*5
 

*1:ここでいうコミュニケーションとは、常連さん相手に狂気の開陳 - シロクマの屑籠で言うところのコミュニケーションであり、人間と人間が相互作用をもたらす全場面・人間が人間に働きかけ得る全場面について該当するものとする

*2:なお、この行動遺伝学的・進化生物学的要件の調査については、現在殆どの精神科医と臨床心理士は全く着目していないし、これからも暫くは着目しないかもしれないと推測している。

*3:ところで、道徳や倫理性を動機と切り離して常に純化して考える人達には、こうしたコミュニケーションにまつわる思いやり作業がまともに可能なのだろうか?もし、「当人の主観的心情がどれだけ道徳的か否か」と、「対象とどれだけ善い関係を構築できるか否か」をひたすら等号で結びたがる人がいるとしたら、その人の「道徳や倫理」は、恩着せがましいエゴイズムの類に分類されると私は考えざるを得ないし、そのような人間の道徳や倫理はくそくらえだと思う。

*4:なお、そのような勘繰りを露骨に提示することは当然ながら大いに躊躇う

*5:私は神にはなれないし哲学者にもなることは出来ないが、しかし、目の前の人間に出来る限り接近することはやはり可能かつ有意味だろうし、自分の「近似式」が計算不能となった時には素直に畏怖の念にうたれる用意がある。総て自分が理解できるようにしないと気が済まない強迫性を持った人は、計算不能を恐れるかもしれないが、私はむしろ、歓迎する。私は永遠に世界を把握しつくせないが、そんなのは当たり前のことだろう。大切なのは、そのなかでいかに有効かつ有用な近似式を発見し、実地に応用できるか否か、である。